2015年10月5日月曜日

要不要

 学問分野とか教育とかは特にそうだと思うのだが、ある事物について必要性を訴える時にはお金にならない価値があるとか心の豊かさだとか言い、逆に排除すべきだと主張する時には採算だとか収益とか経済的要因が挙げられる非対称性が気持ち悪い。みんなが自分の利権についてそう主張すると、どうやったってまともな合意形成に至らないし、扇動による数の暴力に訴えるしかなくなる。例えば基礎学問が好きな人とかだと、しばしば「哲学科や数学科は大量の使い物にならない人を生み出すが、一部の天才を生み出すから、それで良いのだ」という主張と「学際系の分野は天才を生み出すかもしれないが、平均的な学生の質が悪いから大学から無くすべきだ」という主張を同時に言うことがある。そういう人の本音は「真理を目指している基礎は偉く、応用は産業界の奴隷だから消えて欲しい」なのだろうが、そう考えている自分を直視したくないからその場しのぎの理屈を別個に作り、結果矛盾を露呈している。前者では真理とかそういう非経済的なことを言い、後者では大学教育のコストとその結果得られた果実(平均的な学生)の考量という経済的なことを言っている。基礎系と学際系の位置づけにおいてさっきの人と完全に正反対な人がもしいれば、彼らの間の対話は成り立たず、多数決にしかならないのは想像がつくだろう。お互いに自分の有利な場所では人間だとか価値観の問題に持ち込むから相手がお金の話をしても聞き入れる訳がないし。
 結局、個人的には社会において合意形成を取るには乱暴な近似でも良いから全てお金の問題で考えないと上手くいかないと思うんだけどね。少しは例外はあっても良いと思うが、現代ではその例外が多過ぎるように見える。

2015年9月25日金曜日

基礎でも応用でもない学問

 しばしば「産業界の圧力に押されて基礎学問が軽視されている」という主張が為され、そこでは基礎学問の例として数学や哲学、或いは物理学や文学が挙がられているが、これは適切だろうか。そしてそれらの基礎学問は真理を志向しており、経済的要求に従う応用とは違うということも同時に主張されることが多い。例えば松本眞(http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/~m-mat/NON-EXPERTS/SHIMINKOUEN1999/SUGAKUKAI/res5.pdf)等が典型だ。
 しかし、学問は真理を志向する基礎と経済的要求に応える応用とに分類出来るという考えは明確に間違っている。例えば文化人類学はどちらに分類されるのか。抽象的に思考を重ねて真理を追究せずにフィールドワークと身体感覚を重視しているから基礎ではないだろうし、しかし同時に何らかの産業的要求に従ったものでもなく、応用とも呼び難い。学問を基礎と応用に分けるという考えは、どちらにも分類されない学問への無知の表出でしかないのである。
 加えて、基礎学問という括りを以て、数学と哲学を仲間と見做し、それらに迫っている危機の原因を同一視することも批判したい。数学に関しては所謂実学に押されているという認識でもそう間違っていないかもしれない。しかし、哲学や文学にとって本質的なことはそれではない。今後哲学や文学らしい文学はそれ単独では人間や社会を語り得ないことである。即ち、心理学や文化人類学、経済学等の人間科学、社会科学が発達し、「自分はこう思いました」というレベルで人間や社会を語ることが出来なくなっている。例えばシェイクスピアを引き合いに人間の心や動きを語ったとしても、それは単なる思い込みであるとか、あくまで例外であって多くの場合には人はそうはしないだろうとか、いくらでも否定されてしまう。他にも内田樹とか東浩紀みたいな現代思想系の人が、現実の事象を語る時にしばしば全く関係のない物事と物事の間に関係を妄想し、陰謀論を展開することも例として挙げられる。今や、哲学や文学のみを以て人間や社会を語るのは意味がないどころか、その知名度や肩書によって真に有益な議論を覆い隠してしまい有害なのである。文学や哲学の重要性、価値を人間を知ること等に求めるのは最早不可能だ。そして今後は現実世界の事象を語る時に、哲学や文学は信用されなくなっていくであろう。であるから、哲学は現実世界の事象を扱うのを止め、完全に抽象的な、ないし空想の世界を扱わざるを得ない。しかしそうすると今度はソーカル事件のような問題も起き得る訳で、ではどうすれば哲学や文学が学問として生き残っていけるのか、これが本質的な問題である。これは丁度写真が登場した時に絵画がどう発展すべきか思い悩んだのと同じである。現実世界を映すのなら、哲学や文学より実験やフィールドワークをやる学問の方が絶対に強い訳で、これは真剣に考えねばなるまい。
 最後に、特定分野の学問の排斥がもしあるとすれば、それは基礎系学問よりもフィールドワーク系の方が先だということを述べておこう。基礎系の学問は天才ならばポンポン成果を出すことも出来るが、フィールドワークは10年単位の時間が掛かり、かつ天才も凡人と同じ程度の成果しか出せない。産業界や文科省の陰謀無しでも、学術界が自己生成したpublish or perishの論文量産文化の存在だけで死に得る分野なのだ。スモールワールドネットワークのダンカン・ワッツもそれ以降スモールワールド並みの派手な成果を挙げていないのも、フィールドワーク系に移ったかららしいという話もある。社会の圧力で基礎系が迫害されているという話の前に、現に研究が厳しくなっているフィールドワーク系を救うことを主張したらどうなのか。

個人的な印象として、数学系の人はしばしば哲学に夢を見過ぎるように思う。哲学の実体を知ろうとせず、偶像化した「哲学」を自分の主張の都合の良い形に拵えて崇拝している。
 

2015年9月11日金曜日

全てを学ばないと、一つも分からない

 学問というものは、全ての分野を一通り学ばなければ、自分の専門となる一つの分野でさえ真には理解出来ないのではないかと思う。特に社会科学ではそうだろう。というのも、学問の成果を実社会で使う際には、狭い学問範囲から出した最適解は他の学問分野によって導出されるような制約条件を満たしていなかったり、他の学問分野の対象の部分に大きな負荷を転嫁している可能性があるからである。
 極端に単純化した喩え話をしよう。教育学者の教育に関する意見が絶対に通る社会があったとしよう。ここで、「最高の教育」を実現する為にコストを無尽蔵に掛けたら、他のことをやる費用が無くなるし、それは例えば景気刺激策や社会保障等、他の分野の削減を意味する。つまり、自分の分野の予算拡充が過ぎれば他の分野を削らねばならないから、「最適な教育」というものは教育学の知見だけからは決して決められないし、決めるべきではない。その実例は例えば韓国で、大学受験当日に交通機関や警察が受験生に協力する等、明らかに日本よりも教育に熱心であるが、韓国の教育が日本のそれよりも優れているかというのは難しい。恐らく、教育に掛けるコストを削って新規事業立ち上げの支援や内需拡大策を取り、財閥主体の経済体制からの脱却を図った方が教育にとっても実は良いのではないか。そうなるメカニズムとして考えられるのは、教育学の範囲では外部から所与として与えられる条件が、社会情勢の変化によって変化し、改善されるというものである。即ち、教育制度や教育文化といった、教育に関係した分野だけから教育がどうあるべきかの最適解を導くことは出来ないし、この理屈は教育以外の分野にも言えるというのが私の結論である。

 私は大学教育の最大の目的は職業研究者の育成や研究そのものではなく、寧ろ民主主義社会で健全な意思決定の出来る教養人の育成だと思っているから、政治哲学や経済学等、全員が学ぶべき学問というのがあるんじゃないかとも思っている。

2015年9月9日水曜日

生き方の多様化と将来への悲観

 生き方の多様化は必然的に将来への悲観をもたらし、一部の強い人間以外にとっては寧ろ生活が苦しくなる。一見「個人の生き方がどのようなものであれ、それを肯定する」という考えは個人を幸福にするように見えて、実はそうではないのだ。それを理解する鍵は合成の誤謬にある。
 社会的状況が所与で不変であり、その前提の下であれば確かに多様な個人の生き方を認めた方が、自分の望みを肯定される確率が高いので幸福であろう。しかし、社会は決して所与のものでも、不変のものでもない。個人の多様な生き方を許容した時点で、社会的状況が大きく変化している。「多様な生き方を認める」ということは、裏返せば「特定の標準的生き方を強制する」ことの否定である。これだけならまだしも、実質的には「特定の標準的生き方の提示をも否定する」ことにまで、強硬な多様化論者の個人尊重の理屈に押し切られて進んでしまう。すると、何歳で何をするか、ロールモデルが失われて殆ど指針が立たなくなってしまう。社会に色々な人があり過ぎて、誰を自分の参考に出来るのかが分からず、10年20年後に自分がどうなっているのか予想出来ない。そもそも、多様化によって「将来なり得る人間のパターン」が増えている訳だから、その内のどれになれるのかの予測精度は必然的に落ちるだろう。だから高い将来の不確実性によって短期的な損得しか考えることが出来なくなり、長期的な行動、例えば結婚や出産、自宅の購入等が困難になる。このような世の中では、どのような状況でもやっていけるような一部のエリートしか安心して暮らせないし、非エリートの生活の崩壊によって経済も失速するであろう。大多数の平凡な人にとっては、標準的な生き方が、押し付けがましくとも必要であると結論付ける。

 直感的にも、自由な生き方よりもリストラや倒産の恐れの少ない企業に就職して安定した生活を送りたいと思っている人の方が圧倒的に多そうな時点で、このロジックは正しいんじゃないかと感じている。「就職が難しいことへの不安」とか、どう考えても「生き方を強制されて自由が無い」ことへの不満ではなく、「標準的なライフスタイルを得ることが出来ない」ことへの不満であろう。自由を得て嬉しいのは強者だけであって、多くの人にとってはデフォルトの選択肢が幸福である方が良いのだ。

2015年8月30日日曜日

無駄をなくすと、無駄は減るのか

 世間では無駄をなくすのは常に良いことだとされているが、本当だろうか。寧ろ、多くの場合には無駄をなくしたつもりになっていても実際には減っておらず、他の人に押し付けただけだったりするのではないか。例えば、IT企業において「エクセルスクショ貼り」は完全な無駄と考えられているが、果たしてそうだろうか。もし、こういう誰でも出来る作業をなくしたとすると、職場で求められる技術レベルが上がり、失職する人が出てくるだろう。再就職が難しい場合、彼らは生活保護なり何なりで養わなければならないが、それは企業が「無駄」を持ちながら彼らに給料を払って養うのと、果たしてどちらがマシなのか。
 簡単な数理モデルを導入してみる。一人が生きるのに必要な資源を1としよう。最初に会社には100人の人がいて、100生産し、各社員は1の給料を受け取っているとする。この会社が、働きの悪い社員をリストラして効率化したとする。今度は社員50人、生産は75とする。すると、会社にとって生産の効率性は1.5倍になっている。利潤という点で言えば、例えば社員の給料を1から1.2に増やしたとすると、会社の手元に残る資源は最初の状態より15増えている。会社からリストラされる筈のない優秀な社員も会社の持ち主も、みんな最初より多くの資源を手にするから、この効率化にはほぼ必ず賛同することであろう。
 これだけならハッピーかもしれないが、会社を離れて社会全体を見てみると、リストラされた50人も養わなければならない。すると、効率化はしても生産の総量が減っているこの変化は、社会を貧しくする方向に向かっていることは明らかである。彼らが再就職出来れば問題ないのだが、全ての会社が「生産性を落とすような劣った労働者は雇わない」方針であるならば、再就職は困難であろう。つまり、局所的に効率化した結果、全体としては逆に悪化するのだ。
 このような論理はエクセルスクショ貼りだけでなく、他の事例にも応用出来よう。例えばある会社は家庭用ゲーム市場が衰退したのでその部署を縮小し、元々その部署で働いていたゲームデザイナーらをスポーツジムの清掃員か何かに配置換えしたらしいとのことでオタクから叩かれていたが、そのバッシングは本当に妥当だろうか?再就職が難しい人を雇用し、何らかの生産活動を行わせ、給料を払っているのだから先述の論理に従うと、これは善である筈だ。リストラするよりもずっと良い。そもそも、本人がその仕事よりももっと生産量の高い職場で働けるとするならば、そっちの会社へ転職する筈である(個人の生産量∝給料という近似を入れた)から、ジムで働き続けていること自体が、今の社会の中で彼らにとって一番生産量の多い職場がジムであることを表している。彼らをリストラしたところで、彼ら自身はもっと給料が低い会社で働かなければならないし、社会全体で見ても、社会全体の生産量は落ちる筈なのだ。国民全員を食わせていかなければならない現代の国家では、個々の企業の生産性ではなく、国全体での生産量を見るべきである。

2015年8月29日土曜日

労働の神話

 世間には労働に関して陰謀論的な神話が流布しているようなので、それを否定するような簡単なメモを記す。

①政府は教育水準を意図的に下げて愚民化政策を実施し、企業の従順な奴隷を作ろうとしている

 そんな訳はない。そもそも、この議論の前提には「沢山勉強した賢い人は、企業に搾取されない」という考えがあるが、そもそもそれが間違っているように思う。何故ならば、主張に対する反例が多々ある。例えば、韓国は日本よりも明らかに教育熱心で、大学受験を国家全体を挙げて支援しているが、そんな秀才たちがサムスン等に就職すると、厳しい労働条件の下でこき使われている。これを見るに、勉強を頑張ったからと言って企業におとなしく従わなくて済むなんていうことは全くないと考えるのが自然であろう。それどころか、これまでずっと勉強してきて漸くサムスン等の一流企業に就職出来たのだから、辞めてしまっては全てが無駄になると考え、より一層企業に対して忠実となる可能性すら考えられるのではないか。ゴールドマンサックスには社員ではなくインターンシップ生(!!)の過労死まであるし、学問が人間を自由にするというような考えは先進国では最早成り立たないのではないか。

②全ての仕事が機械化・自動化し、ベーシックインカム等により人間は働く必要がなくなる

 実現しないだろうし、もし仮に最終的にそうなるにしても、移行期間において大きな社会的混乱が起きるので、ユートピアではないだろうというのが私の考え。働く必要のある人の数が少なくなっても、一部の仕事は人間がやる必要があるだろうし、それらの仕事の中には社会秩序の維持に不可欠なものもある筈だ。それらは、必ず誰かにやってもらわなければならない。その時、どれくらいの賃金で働いてもらえば成り立つのか。働く必要のない社会では、働かなくても生活出来るだけのお金を配布している訳であるから、これらの労働者に支払わなければならないお金はかなりの高額になるのではないか。そうなると、結局インフレになり、働かなくてもいい社会であるという前提が崩れるのではないかという気がする。若しくは、不労階級と労働階級に分離し、どちらかがもう一方を差別する社会の到来かもしれない。歴史的にも、嫌な仕事を被差別階級に押し付ける事例はいくつか存在した訳であるし。また、機械化や自動化にすごく熱心な企業であるAmazonが恐ろしく厳しい労働環境だということを考えると、機械化や自動化で便利になる人もいるが、その機械やサービスを提供する側は割と地獄なんじゃないかなって。

③教育を強化すると低所得者層が経済的に成功する可能性が上がる

 ここで言う教育の強化とは、主に大学進学率の向上みたいなものをイメージしている。確かに、高度な知識や技能を要する知的職業は存在するのだが、その絶対数は少なく、輩出される大学生もしくは院生の数よりも少ない。それにあぶれた層は所謂普通のホワイトカラーに行くのだが、それらでは何ら特別な能力を要求されておらず、大卒者がそこへ行けるのはシグナリング効果に過ぎない。大学に行くことによる所得向上効果の大部分がシグナリング効果と言えよう。すると、低所得者層を優先的に大学に入れ割合を上げる等しない限り、そのホワイトカラーの職の雇用出来る人数が限られている以上、大学に行きホワイトカラーになってお金を稼ぐ低所得者層出身者が増えるということはない。そもそも極論、全員が大学に行くようになれば、低所得者層が大学に行ったからといって豊かになれるという訳ではない。限られたパイをシグナリング効果で奪い合うゲームである限りは。寧ろ、何らかの事情で大学に行けない人は、今以上の苦境になるであろう。皆大学に行くのが当然であるから、大学に行かなかったのは何らかの欠陥がその人にあるに違いないと考えられて。日本以上に大学進学熱が高い韓国において、大学に行けなかった人はどれだけ苦しいのか考えてみるとこういう結論が出てもおかしくないのではないかという気がするけれども。
 そもそも、階層間移動の容易性って救貧において最優先されることであろうか。それよりも、どんな職業に就いたとしても、普通に生きることが出来るお金を稼げる方が大事なのではないか。「いつでも大金持ちになれる可能性が十分あるけど、貧しい人は餓死寸前」な社会よりかは、「階層はなかなか変わらないけど、餓死はあり得ない社会」の方がマシではないか。であるから、救貧には大学教育の充実よりも公共事業による雇用増加の方が良いのではないかと思うのだけれど。

2015年8月27日木曜日

SSC輪読会【6】【7】

 SSC輪読会の第6、7回は11章(Combining Mathmatical and Simulation Approach to Understand the Dynamics of Computer Models)の補足ということで、ABM(agent based model)の解析解の導出を、テキストから離れて具体的なモデルで行います。題材はminority gameの臨界点です。その計算過程を詳細に記したpdfをここに上げます。間違い等ありましたらご連絡ください。

https://db.tt/a9jvtsiY