2015年9月9日水曜日

生き方の多様化と将来への悲観

 生き方の多様化は必然的に将来への悲観をもたらし、一部の強い人間以外にとっては寧ろ生活が苦しくなる。一見「個人の生き方がどのようなものであれ、それを肯定する」という考えは個人を幸福にするように見えて、実はそうではないのだ。それを理解する鍵は合成の誤謬にある。
 社会的状況が所与で不変であり、その前提の下であれば確かに多様な個人の生き方を認めた方が、自分の望みを肯定される確率が高いので幸福であろう。しかし、社会は決して所与のものでも、不変のものでもない。個人の多様な生き方を許容した時点で、社会的状況が大きく変化している。「多様な生き方を認める」ということは、裏返せば「特定の標準的生き方を強制する」ことの否定である。これだけならまだしも、実質的には「特定の標準的生き方の提示をも否定する」ことにまで、強硬な多様化論者の個人尊重の理屈に押し切られて進んでしまう。すると、何歳で何をするか、ロールモデルが失われて殆ど指針が立たなくなってしまう。社会に色々な人があり過ぎて、誰を自分の参考に出来るのかが分からず、10年20年後に自分がどうなっているのか予想出来ない。そもそも、多様化によって「将来なり得る人間のパターン」が増えている訳だから、その内のどれになれるのかの予測精度は必然的に落ちるだろう。だから高い将来の不確実性によって短期的な損得しか考えることが出来なくなり、長期的な行動、例えば結婚や出産、自宅の購入等が困難になる。このような世の中では、どのような状況でもやっていけるような一部のエリートしか安心して暮らせないし、非エリートの生活の崩壊によって経済も失速するであろう。大多数の平凡な人にとっては、標準的な生き方が、押し付けがましくとも必要であると結論付ける。

 直感的にも、自由な生き方よりもリストラや倒産の恐れの少ない企業に就職して安定した生活を送りたいと思っている人の方が圧倒的に多そうな時点で、このロジックは正しいんじゃないかと感じている。「就職が難しいことへの不安」とか、どう考えても「生き方を強制されて自由が無い」ことへの不満ではなく、「標準的なライフスタイルを得ることが出来ない」ことへの不満であろう。自由を得て嬉しいのは強者だけであって、多くの人にとってはデフォルトの選択肢が幸福である方が良いのだ。

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