2015年10月25日日曜日

通俗的個人主義及びその帰結たる相対主義の知的退廃について

他のところに寄稿する予定の文章の一部です。

 深い信念に基づかない、最も安直なニュアンスにおける個人主義――これはしばしば現代社会においては常識とされ、それを弁えない者は迷惑な物として見られるのだが――は必然的に極端な相対主義に陥り、対立を避けるが故に思想的進展の余地を失う。それどころか、かつての思想家や研究者の遺産に目を背けることにもなる。それについて、我々の家族観を引きながらこれを論じる。
私は先日、知人らと集まってその家族、家族観について話し合ったのであるが、そこにおいて支配的な主張は親からの干渉の拒絶と自身の独立、結婚においても伴侶及び子供を束縛すること、されることの否定等であった。また、離婚の肯定も少なからず聞かれた。また、既存の社会構造に制約されることにも否定的である。これらの、通俗的個人主義とでも呼ばれるべきであろう態度の背後に存在するのは、対立する個人は互いに不干渉を貫くことが幸福だとする考え方である。この考え方を支えている原理は3つある。各個人は独立であること、各個人は本質的には不変であり、大きな変化はまず起こらないということ、各個人は自分が何に対して幸福を覚えるのか完全に理解していることの3つである。
何故このような3つの原理の存在が想定されるのか。それは彼等のそれに反する家族観を考え、その家族観を成立させる原理に対立する主張として発見されるのである。即ち、人間は相互依存的存在であり、個人は他の個人や社会無しには存在し得ないこと、人は対立する意見と遭遇することにより、その矛盾を解消しようとしてより高い見識を得、変わっていくこと、人間の認知はヒューリスティックスやバイアスに基づいており、自分の選好すら分からないということである。
そもそも私が先述の通俗的個人主義を批判するのかと言えば、個人の対立の回避を最優先に考える態度は、全ての価値観を同等なものに置く行き過ぎた相対主義に必然的に陥り、これは人類の積み重ねてきた思慮思想、科学の否定であるからである。これが社会の構成員の殆どの信じるところとなれば、社会は本質的に個人の働きかけによって改善不可能な代物となり、個人は構造の奴隷となる。個人の対立を回避し、意見に対して上下を付けることを常に否定すれば、捨て去るべきものも含めた任意の主張が存続することになり、また熟慮の末にかつての偉大な思想家が辿り着いた思想と、世間に通用している単なるノウハウの区別も無くなるであろう。そして対立の否定はそれらの間の矛盾を解消しようという欲求をも人から奪い去るのであるから、命題と対立命題から、それらを統合しようとして全く異なった主張を作ることも無くなり、思想は発展せず、停滞する。各人の考えがこのように固定化する社会においては、力関係及び優先順位は単純な多数決のみに支配されざるを得ない。説得により誰も意見を変えないからである。また自分の中だけで考えを深め変えたとしても、他者がなく自分の中だけで完結した行為であるから、本質的な変化はせず、変化は表層的なものに留まる。もし奇跡的に特定の個人が相対主義を克服したとしても、社会の構成員の大多数は他者からの干渉を拒絶し、自分が変化することを許さないのであるから、社会の圧倒的大多数は依然として相対主義であり、種々の政治的意思決定においてその多数派は必ず意志を通す。このような社会において現行の政策の支持者が少数派に落ち、政策が転換され得るのは老人が死んで新しい子供が生まれる世代交代によってのみである。子は親や祖父母の世代を見ているから、それらの失敗は学ぶことが出来る。しかしそれはあくまで個人の中で完結した限定的な学習に過ぎず、単なる具体的な失敗実例に対するアンチでしかないから、再び今度は別の形で失敗するのは避けられない。場合によっては、アンチのアンチを安直に取って先祖返りを行う可能性すらある。それは例えばリベラルな思想の普及こそが過去の失敗を踏まえた進歩だと信じている人間の多そうなフランスにおいて、322日と29日に行われたフランス県議会選挙第1回投票で国民戦線(FN)が25.2%の史上最高の得票率を獲得したことをどう見るかということである。現党首マリーヌ・ルペンは兎も角、その父で前党首であったマリー・ルペンがしばしば反ユダヤ的言動を取るのはこの一例ではないか。流石に単純な先祖帰りを起こす者は少数派であり、マリー・ルペンは支持拡大を目指す国民戦線から排除されつつあるのだが。
このような状況においては例えば、迷信や差別思想等も減らすことは出来ないだろう。これに対して「他人に迷惑を掛ける、ないし損害を与える思想、行動は個人の尊重という原則に反するものであるから、これを排除するのは個人主義に矛盾しない」というような反論が想定されるが、その考えは理屈としては間違っていないが現実世界において実効性のある形で運用することは不可能であり、別の原理を求めなければならない。
現実において機能しない理由として、迷惑や損害というものが実際には万人が納得出来るように一意に決めることが出来ないことが挙げられる。例えば福島への風評被害の問題を考えてみよう。科学的に言えば、福島県の住民や福島県産の食品を食べた人に対して放射線による有意な健康被害は起こらないということは明らかであり、従ってその危険性を主張するのは福島県民の生活に対する攻撃に他ならない。しかしながら、放射能の危険を言う人々の認識においては、福島は重度の放射能汚染状態にあるのであり、住民は生活を捨ててでも移住することが将来の健康被害を減らし、住民の幸福に資すると思っている訳である。彼等の多くは純粋な善意から意図せぬ加害行為を行っているのであり、これを通俗的個人主義者がどのような論理を以て批判することが出来るだろうか。この場合には科学的に決着が付け得るが、そうでない場合にはどうするのか。また文化の維持等、公共的な目線が入ってくる場合にもこの問題は難しくなる。例えばアパルトヘイトの理論武装に西洋文化による文化帝国主義に反対する文化人類学のロジックが使われたことをどう評価するか。以下一部引用するが、是非これは全文を読んで欲しい。“アパルトヘイトを推進した白人政権は、もちろん政治・経済的な側面を計算し尽くして、計画的にこれを導入したが、この政策に対して文化面での装飾を施し、人びとを同意へと誘った役割を果たしたものの一つに、イギリス系の社会人類学の存在があった(注:「文化人類学」と一般に呼ばれる学問であるが、イギリスではしばしば「社会人類学」の呼称が用いられる)。この経緯について、明快な指摘を行っている著作を、以下に引用する。「当時(引用者注:居住区の隔離が法制化されていった20世紀初頭)の隔離政策のブレーンとして、「原住民」の境遇に同情するイギリス系の知識人が積極的に利用された」「白人権力による征服と抑圧、さらには部分的な同化の容認によって、伝統的なアフリカ人社会は崩壊の危機に瀕していた。白人社会と伝統的なアフリカ人社会を引き離しておくことで、それぞれの集団は、それぞれの価値観に従って生存していくことができる。こうした考え方は、「文化相対主義」を信奉し「原住民の伝統文化の保護」を求める当時の人類学者によって、強く唱導された。」(峯, 1996: 124)”(http://synodos.jp/society/13008/2より、空白と改行を一部削除)
それに対して「それなら他者の行動に口出しするのはそもそも全て間違いなのだ」という反論がありそうであるが、その場合には、例えば生活に金銭的援助を必要としない大富豪が、何故私は税金を払って貧困者を助けなければならないのかという疑問を抱いた時、どのように答えるのか。恐らく「貧困者にも生きる権利があるのだから、政府はこれを援助しなければならないのだ」とでも言うのだろうが、大富豪がそれなら助けたいと思うお前たちだけでやってくれ、俺は何もしないからと言えばどうなるか。「税金を納めるのはやりたいやりたくないの気持ちの問題以前の義務だ」としか答えられないであろう。しかしこうなると、思想の如何に関わらず納税を絶対の原理として持ち出す訳であるから、通俗的個人主義者の、既成の社会の構造に束縛されないべきという原則に違反し、通俗的個人主義者の立場からの説得ではなくなる。結局納税には誰も違反してはならないと言っているのであるから。もしここで「金持ちなら税金を納めろ」と金持ちであることの特殊性を強調して乗り切ろうとすると、納税は絶対の義務だという理屈はもう使えないのであるから、その主張は相手の倫理に訴えざるを得ない。しかし倫理!これはまた通俗的個人主義者が嫌うものである。しかも相手の精神性、ないし論理矛盾ダブルスタンダードからの反論ではなく、お金を持っているという唯々外面的性質によって、人間内部を束縛しようとしているのである。普段は弱者は弱者らしく振る舞え等の主張をおかしいと思う人々が、別の人々に対してはその外面から内部が規定されるべきだと考える訳である。
これに対して「言いたいのはそうじゃない。大富豪は既に十分な幸福を得ているのだから、それを少し減らしても貧困者の低い幸福が大きく伸ばせるならそれが良いじゃないか」との反論が来るだろうが、この主張は本質的に、ある一定の基準を満たせば一部の個人に干渉して全体での幸福が増えるようにしても構わないということを言っている。しかしここで第二の問題が発生する。その線引きの基準は、一体どこにあるのか。例えば十分に子供を作らなければ労働者が不足し高齢者を実質的に見殺し、またインフラ維持が出来なくなり我々の生活水準が大きく下落する訳であるが、子供を設けることを不妊者を除いて義務化すべきなのか。すると「法律になっていないのに、強制されるのはおかしい」という反論が先ず挙がるだろう。しかし今は法律の話をしているのではない、それ以前の問題の話をしている。よしんば法律の話をするにしても、法律の縛りが無ければ何をしても非難される覚えは無いとすると、例えば在特会やしばき隊のデモを批判するのは他者に干渉しているから間違いなのか。「いやいやそれは極端な話だ、在特会やしばき隊は明らかに周囲に加害しているじゃないか」というかもしれないが、しかし子供を作らないことも他者を加害していることには変わらない。被害者と加害者が誰なのか具体的に列挙することが困難かつそれらが重複し、また責任が多数の人々に薄く広く分配されている等が違ってはいるが。ここで「間接的に被害が出ることは何をしてもそうなんだから仕方ないことだ。直接の加害行為だけが加害だ」という反論がありそうであるが、そのロジックを採用するなら納税を拒む大富豪は法律的には犯罪者ではあるが、少なくとも加害者ではなく、従って彼が罰せられるのは、唯単にそれが既に法律であっただけの理由であり、不当である。「いや法律だから仕方ないでしょ、認めなきゃ」と言われそうであるが、もしそうであるならば、かつて同性愛行為が違法であった時にはあなたは同性愛行為を処罰することに反対しないということですかと訊きたい。加害者でない者を単に法律に従って罰するのを肯定するのであれば、その時代においては必ず同性愛行為に反対せねばならず、今日のように解放されることは無かったであろう。法律で定まっていることであっても、合理性を欠いているものは何らかの運動により否定され、法律は改訂されるべきである。果たしてここに、場当たり的な感情ではなく、相互に矛盾しないロジックとして大富豪に納税させる主張を構成することが出来るのか、いや出来まい。そして同時に子供を作らないことを倫理的に非難することを個人への干渉だとして退けるものとしてそのロジックを構成するのは、尚更困難であろう。しかしここで大富豪の脱税を許すと言い放てば、それは貧困者を見捨てることになる。ここにおいて、通俗的個人主義は思想として完全に破綻する。

2015年10月21日水曜日

宮田氏の評に対する返答

 先日の記事(http://seigaikijin495.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html)に対して宮田氏が論評を載せていた(http://yagatekikoeru.blogspot.jp/p/blog-page.html)ので、それに対する返答を書く。
 宮田氏の文章を読んで感じるのは、ロジックが不鮮明、ないし掴みづらいということである。そういう感想それ自体が恐らく彼曰く“他にも思想=文体があるにも拘らず、すべての文章が彼と同じ「アイデア」で書かれている、と想定している。”ということなのだとは思うが。宮田氏の文章で一番の心臓は“このことは慣れている人には自明のことなのだが(以下略)”の段落だと思うのだが、比喩がありながらも具体的な逸話がなく、その点が私には分かりにくい。なので私がその内容を、極一部ではあるのだが、理解しようと努めた時には次の段落に述べるアリストテレスの喩え話を作らなければならなかった。これは個々人による納得の生じ方の違いなのかという気がする。
 間違っている可能性が低くないことを承知で言えば、恐らく宮田氏の念頭にあるのは、ある一つのテキストの読まれ方が一つに固定されてしまうことへの危惧、コンテキストの変化によってその文章が持つ「歴史的(?)」意味が変化していくことから目をそらさないことなのではないかと思う。私の憶測であり、史実を反映しているとは言えないので妥当性に疑問があるであろうが、次に挙げる喩え話の真偽は議論の結論には影響しないと考えられるので、それを述べさせてもらう。また、著者と著作の区別も無視する。アリストテレスは同時代人から見れば医学や自然学にも深い造詣があり、狭義の哲学者というよりはあらゆる学問の専門家として思われていたであろう。少なくともイスラム圏においては、教義の理論武装に使われた哲学者としての側面だけでなく、イスラム科学の発展に大いに貢献したことから推測されるように、偉大な科学者でもあっただろう。イスラム圏に渡ったアリストテレスがキリスト教圏に流入した当初は、哲学と教義の矛盾が問題となった。アリストテレスは、キリストへの反逆者だと捉えた者もいたに違いない――アリストテレスの生きていた時代には、まだキリストは生まれてすらいなかったにも関わらず。しかしトマス・アクイナスがアリストテレスとキリスト教を統合すると、今度は逆にキリスト教の根本思想になった。すると、今度はガリレオ等の科学者の学術的活動を阻害するようになり、アリストテレスの科学者としての側面は失われ、頑迷な宗教者になった。(余談であるが、現代においても少なくとも物理学者はアリストテレスを科学者だとはあまり思っていないだろう。物理学の歴史は多くの場合ニュートン、そうでない場合にはガリレオから始まる。)そして現代においては、アリストテレスは宗教者としてではなく、専ら哲学者として見られ、科学活動については哲学の一部として考えられている。このように、アリストテレスは時代と読者の相違によって全く違った理解がなされており、確かに私が先日述べた“作者のメンタルモデルを考えるということ”の範疇を超えていると考えられる。アリストテレスが何者であるかは、アリストテレス本人だけでなく読者やコンテキストにも依存している。読者が自分自身の中にあった何ものかをアリストテレスに投影していると言えるかもしれない。尤も、このアリストテレス問題は私が見落としていたことのあくまで一つに過ぎず、恐らく宮田氏の述べたかった内容はより広範なのではないかという気がするが。
 しかし、私がアリストテレス問題を先日の記事において考えていなかったのは、先日に想定していた問題はより短い時間スケールの問題だったからである。社会や政治を語る時、しばしば一面的、それどころか単なるこじつけや言いがかりから煽情的なタイトル、主張を作り、拡散するような問題を主に考えていた。例えば福島県への風評被害等。確かに、社会や政治、それどころか科学においても複数の解釈、読解は存在するものではあるが、それは必ずしも任意の読み方が同等に正しいということを保証しない。実際には、明らかに間違った読み方が存在する。例えば「原発腫瘍は放射線から発生したものだ」等。私が著者のメンタルモデルや歴史の重要性を主張したのは、如何にしてその主張が生成されたか、それ以前の積み重ねを踏まえることにより間違った解釈を取り除くことを念頭に置いている。これを怠れば、絶対にある一つの解釈が正しいという権威主義に陥るか、さもなければ全ての主張は同等という悪しき相対主義に至るかしかあり得ない。このような状況であった為、アリストテレス問題は見逃されたのである。
 また、ビジネス書や自己啓発本に関する議論に関しても、言わなければならないことがある。書いていなかったことを後から付け加える訳であり、卑怯なのだが容赦して欲しい。ビジネス書や自己啓発本というのが具体例として挙げられているのは、理学系の所謂意識低い系が最も馬鹿にするものであるからに過ぎず、議論において哲学に通じると言いたかった本はまた少し違っている。私としては、ビジネス書や自己啓発本でさえ思想に通じる可能性があるのだから、『私が想定している本たち』をや、と言いたかったのである。あの段落の目的は、本来は理学系意識低い系の啓蒙である。彼らは明瞭かつ一意的に解釈出来るものにしか高い価値を置こうとしない。また、同時に具体的なものを卑しいと考える。具体的な事例は必ず理念と比べて歪んでいるのだから、唯一性を愛する彼らがこれを嫌うのは整合的である。これらの価値観により、彼らは数学や情報、或いは理論物理を好み、その他を見下す。こういう手合いは理系にいれば無数に見るものであって、その精神性は、理学部のそれと比べれば薄いとはいえ、工学部にすら溶け込んでいる。これが理系の学生の間における、「数学的でない」ことを勉強することの軽視に繋がっている。例えばそれは工学倫理であったり、また機械や構造物の設計において如何にして要求項目を達成し、創造を成し得るかという人間の頭の使い方、発想の技法、マネジメントであったりする。このような具体的な例は幾らでも挙げられるであろう。では、数学的でないものを見下す態度は何故批判されなければならないのか。その理由は、世に言われる理系不遇論の殆どが単に文系なり日本社会が悪いと言うのみであり、理系の非理系的なるものへの無知を無視しており、それが問題解決の遅れ、ないし理系による他への逆恨みを醸成しているからである。理系が不遇だというのは私に言わせれば理系自身の非理系的なるものの軽視に伴うある種の社会的能力の欠如が原因であり、理系であること自体が不遇をもたらしている訳ではない。文系や体育会系であろうと社会的能力が欠如していれば不遇は免れない。それ自体は社会が高度に組織化され、個人のみでは生活に必要なものを何一つ生産出来ないことから生じる必然であり、解消することは出来ない。であるから、理系不遇の問題を解決しようと思うのなら、理系自身が勉強することが求められている。にも関わらず彼らは不満を言うだけであり、問題解決に対してなんら実効性のあることを主張、行動することがない。このような態度は、少なくとも私にとっては不快である。尤も彼らは、口では非理系的なるものを軽視などしていないと言う。文系的教養、特に哲学は重く見ていると。しかしそれは偽りである。彼らは文章や主張が哲学等の学問の名において渡される時にはそれを尊敬するような素振りを見せるが、内容を理解している訳でなく権威に盲従し、また教養や哲学を解さない者として軽蔑されるのを嫌っているだけであるから、肩書無しで教養や哲学を踏まえた文章を渡されると堂々と自分がその文章を理解出来ないことを誇り、この文章は論理の体を成していない、空虚なポエムだと言い始める。彼らを救うにあたってどうすれば良いのか、それが問題意識としてある。そこで私が出した結論が、(事実関係が科学的に間違っている等の一部の例外を除いて)全ての文章を尊敬し、歴史や著者のメンタルモデルを踏まえることで字面以上のことを学ぼうということなのである。彼らにいきなり哲学や思想を与えたところで分かったふりをするだけで無意味だ、それらを解するにはそれなりの積み重ねが必要である。彼らに必要なのは離乳食である。理解に難し過ぎず、かつ内容的に浅過ぎない。だが彼らは数理を貴ぶ理系のプライドにより、それらを受け付けない。仮令一部を受け付けたにしても、同等の深みを持つ本たちに対して自ずと序列を付け始め、どうしても拒絶する本が間違いなく出現する。そうであるから、ビジネス書や自己啓発本といった彼らの中で最底辺の価値すら持たないものにさえ本当は価値があると思わせ、如何なる文章に対しても深く理解してやろう、多くを学んでやろうという精神性を身に付けてもらう必要がある。分かり易そうに見えるものを見下す精神を、捨てねばならないというのが本意である。

2015年10月18日日曜日

思想の理解と歴史、著者のメンタルモデルから源流の哲学を辿ることについて

 文章を読む際に書かれた文字列の意味そのものを理解しようとするのは明らかに間違いである。体得すべきなのは、書いた著者のメンタルモデル、即ち、何を想定して何を念頭に置いていたのかということである。人間が文章を書く時、文章という表現形式の限界か、自分の考えていることをそのまま書き表すことは出来ない。必ず内容の歪みや欠落を伴うし、かつその変形の仕方はその個人の特性や文章という表現形式等の影響により、均一ではない。例えばある人はある主張の前提となる考えは常識であるとしてつい書き忘れてしまうかもしれないし、そもそもカオスアトラクタのような文章という表現形式ではそもそも表現出来ないものもある。そうであるから、いくらある著者の文章を大量に読み込んだところで、彼が表現したかった真の内容からの乖離は一定以下までしか埋まらず、理解は深まらない。(もし歪みや欠落が純粋にランダムであったならば、大量に読めばある部分で書き落とした内容が他の部分で補充され、理解は深まっていく筈であるが。)このことは以下展開する論の大前提とする。
 さて、では文章は如何にして理解されるべきか。そこで重要となるのが歴史である。著者がどのような時代に生きていたか、その時に問題になっていたことは何で、そして何故それに対し著者が心を痛め、砕いたかという問題意識を共有する必要がある。例えば経済学において全く以て相反する理論が同時に存在し、かつそれらが共に尊敬を受けるのは何故か。経済学の理論は本質的に「人間に何らかの行動原理を仮定し、その仮定から数学的に結論を演繹すること」であるから、行動原理の仮定の仕方によって、任意の自分に好ましい結論を導出することが出来る。複数の対立する理論の雌雄を決するのは理屈の上では統計によって為されるべきであるが、現実的には統計の不確実性、またそもそも何を計量するかという恣意性の存在等により、不可能である。そうであるから、理論の良し悪しはその理論を考案するに至った思想的展開、根源的問題意識を考え、その問題が現在においても存続しているのか、また提案される解決法が有用に見えるのかといった、考案者のメンタルモデルに踏み込む必要が出てくる。同様の推察は論理展開を少し変えれば経済学以外の他の事象にも適用可能である。即ち、文章は歴史無しに理解は出来ない。
 著者のメンタルモデルに踏み込んで考えれば、例えばビジネス書や自己啓発本を読んで哲学書を理解し、また逆に哲学書を読んでそれを誰にでも分かるビジネス書や自己啓発書に翻訳するようなことが出来ないといけない。詳細に述べよう。恐らくビジネス書や自己啓発本は、著者が労働の中で得た体験を巷に溢れる本から理屈を引っ張ってきたものである筈である。著者が理論補強において参考にした本たちも、また別の本を参考にしていた筈である。この推論を続けていくと、最終的には間違いなく哲学書に至る。この世の思想の原型の殆どは哲学者が既に編み出しているものであるからだ。ということは、一見軽薄に見えるビジネス書や自己啓発本もその源流には哲学があり、では何故本来抽象的であり何らかの実用目的にはそぐわない哲学が実利目的の本で使われるかと言えば、それはビジネス書や自己啓発本の著者の体験が両者を結び付けるからである。著者のこうすれば何故か上手くいったという多数の経験に対して、それらを統一的に説明する一貫したストーリー、理由づけ、解釈を哲学が与えているのである。そうであるから、著者のメンタルモデルを文章から推測するように読んでいけば、源流となった哲学の一端に到達することが出来る筈である。これがビジネス書や自己啓発本から哲学を理解するということである。その逆である、哲学書を自分なりにビジネス書や自己啓発本に翻訳してみるというのは、もう説明は不要だろう。
 このことを理解せず、「書かれた文章はそれ自体のみで十分に理解出来る」と考える者がどういう者なのかと言うと、それは例えば所謂意識高い系であったり、反対に真理を目指す基礎学問を無上の価値と見做す、学問盲信者であったりする。意識高い系が自己啓発をし就活をしようとも思想になかなか至らないことは多々見られることである。学問盲信者は学問だけが思想に至る道であると思い込み、意識高い系を思想に到達し得ない者として見下す。これの実例として、少なくない数学や情報系が自分がよく知りもしない哲学をただ哲学であるとの理由で尊敬し、内容的にはそれに劣らぬものの無名の文章に関してはポエムとして軽蔑するのはよく観察されることであろう。結局、意識高い系も学問盲信者もいずれも等しく間違っている。

2015年10月5日月曜日

要不要

 学問分野とか教育とかは特にそうだと思うのだが、ある事物について必要性を訴える時にはお金にならない価値があるとか心の豊かさだとか言い、逆に排除すべきだと主張する時には採算だとか収益とか経済的要因が挙げられる非対称性が気持ち悪い。みんなが自分の利権についてそう主張すると、どうやったってまともな合意形成に至らないし、扇動による数の暴力に訴えるしかなくなる。例えば基礎学問が好きな人とかだと、しばしば「哲学科や数学科は大量の使い物にならない人を生み出すが、一部の天才を生み出すから、それで良いのだ」という主張と「学際系の分野は天才を生み出すかもしれないが、平均的な学生の質が悪いから大学から無くすべきだ」という主張を同時に言うことがある。そういう人の本音は「真理を目指している基礎は偉く、応用は産業界の奴隷だから消えて欲しい」なのだろうが、そう考えている自分を直視したくないからその場しのぎの理屈を別個に作り、結果矛盾を露呈している。前者では真理とかそういう非経済的なことを言い、後者では大学教育のコストとその結果得られた果実(平均的な学生)の考量という経済的なことを言っている。基礎系と学際系の位置づけにおいてさっきの人と完全に正反対な人がもしいれば、彼らの間の対話は成り立たず、多数決にしかならないのは想像がつくだろう。お互いに自分の有利な場所では人間だとか価値観の問題に持ち込むから相手がお金の話をしても聞き入れる訳がないし。
 結局、個人的には社会において合意形成を取るには乱暴な近似でも良いから全てお金の問題で考えないと上手くいかないと思うんだけどね。少しは例外はあっても良いと思うが、現代ではその例外が多過ぎるように見える。