2015年12月17日木曜日

ソフトサイエンスとハードサイエンスの区分の無意味さ

ミクロには生物細胞の内部や動物の呼吸器・循環器系に始まり、マクロには惑星内部や大気海洋、恒星や銀河、超銀河まで乱流現象であり、かなり多くの工学製品も乱流を利用することからも分かるように、世の中の流体現象の殆ど多くは乱流、正に乱流は流体力学の華だと思うんですけど、少なくない物理学者が乱流の研究がソフトサイエンスだと主張するのなら、ハードサイエンスとソフトサイエンスの区分に何か意義があるんですかね?ハードサイエンスとソフトサイエンスを区別しても得られる益は無く、単に学問にヒエラルキーを持ち込みたいだけなんじゃないかと邪推してしまうのですが。ハードサイエンスとソフトサイエンスの区分が「人間の主観性が含まれる現象か否か」というものであったのなら区別することに何か意味はありそうですけど、乱流という、それ自体全く意思の無い物体が引き起こす現象の研究がソフトサイエンスならばハードサイエンスとソフトサイエンスの区分がその定義ではないことは明らかですし。

※「ハードサイエンス主義者」から見て乱流がハードサイエンスに見えないのは、恐らく彼らは「物理学は少数の基礎原理から全ての法則が導かれるべきだ」と思っていて、しかし乱流の研究はNavier-Stokes方程式が解析的に解けないこともあり、観察された個々の現象をad hocに、その場その場で正しそうな仮説を単発、バラバラに作って当てはめていく傾向があるので、そういう基礎原理の無さがハードサイエンス主義者からみるとハードサイエンスではない=ソフトサイエンスなのだと推測される。

2015年11月20日金曜日

理論と体系に関する典型的理系人の認識について

 典型的な理系人、特に数学や情報系に多いのだが、彼らは自分が理論を基礎から理解していることを誇り、その重要性を言う。曰く、実用目的の応用のみでは早晩行き詰る、そうなった時に問題を解決出来るのは基礎に戻って考えることの出来る我々のみだ、と。そして同時に、応用でないという理由からか、哲学等の人文系教養を尊重していると主張する者が少なくない。しかし彼らに、人文系教養のロジックで書かれた文章を、哲学なり何なりの肩書を付けずに渡してみると、それをポエムとしか認識出来ず、理解を拒む。この現象に関して、以前私はその理由を、基礎学問に権威を感じているからだろうと考えたが、その発想に対して今回は修正を加える。彼らの認識の説明には、彼らがある学問が基礎であること自体に権威を感じていること以上に、体系を成していない理論の集まりを理論として認識出来ないことが重要な要因である。この修正により、何故基礎理論原理主義者は数学や情報(、或いは物理)の分野から多く出現するかまで説明可能となる。
 数学の理論は、その多くが公理とそこからの演繹という形で作られる。情報に関してはよく知らないが、数学に近い学問であるらしいから、恐らく似た構造であろうし、そうでなくとも学ぶ者のメンタリティは近いと思われるので、以下の議論において数学系と全く同様に扱っても間違いではないと想定する。そのような学問においては、全ての主張がそれ以前の主張から演繹されたものであり、どんどん源流を辿っていくと最終的には誰かが恣意的に考えた公理(今考えている学問世界の基本法則、ないしルールのようなもの)に到達する。また自分が新しく主張を作る際にも、必ずそれ以前のものからの演繹という形を取る。従って、この学問世界において、どの主張がどの主張を導いたのかを矢印を描いて整理していくと(一つの主張をノード、主張と主張の導出関係を有向リンクで表現する)、幾つかの公理から生えてくる、枝分かれする樹のような構造になる筈である(しかしグラフ理論の言う、厳密な意味でのtreeではない。菱形のような構造もここにはある筈だからだ)。彼らは、そういう構造で表現される体系に含まれる主張、及びその集まりのみを理論として認識するし、何らかの主張を見た時、その主張が自分の知っている何れかの「樹」のどこかに組み込むことが出来るかどうかで、その主張が根拠のある理論なのか、それとも意味のないポエムなのかを判断している。そうであるから、人文系教養に基づいた文章を読んだ時、例えば「これはカントの本です」とか言われれば「ああ何々哲学で、何々を継承しているのだろう」ということが、具体的な「何々」の内容が分からなくても、「カント」という名前から「何々」が存在すること自体は感じ取り、まともな学問であると認識するのだろう。但しあくまで主張の内容から構造の存在を感知した訳ではないから、人文系教養を含んだ文章を「カント」等の説明無しに渡すと構造を認知出来ず、彼らはそれをポエムであると認識する。これによって、表面上は「典型的理系人は、人文系教養に則った文章を、哲学なり何なりという肩書からのみ判断する」という現象が再現される。ここから更に推論を続けると、だからこそポストモダンというか何というか(ポストモダンという語を使ったのは、新興の思想哲学分野にどういうものがあるのか私が知らないからそれっぽいものを持ってきただけであり、特に意味はない)、そういう新興の分野に対しては彼らは恐らく懐疑的なのではないかと予想される。何故ならば、以前の理論から導出されたものではなく、様々な雑多な主張がバラバラに生まれており、体系ではないからだ。余談だが、この予想の正否によって、私の主張は検証出来るのではないかと思っている。
 さて、上述のような理系人が、数学や情報以外からはそれほど産出されない理由を述べよう。それはすごく単純な話で、工学や医学等は数学や情報ほどには体系立っていないからだ。以前から確立されている主張から導出が為されるのを待たず、必要に応じて新しい主張が継ぎ足されていくのであるから、樹木のような構造がある筈もない。実際、典型的理系人はしばしば工学を見下しており、私の観察と主張はその内部において整合性は保たれている。工学や医学では理論を現実に合わせて曲げていくことを是とするから、数学や情報系のような、肩書のみから人文系教養に基づいた文章を判断することは相対的に少ないだろう。尤も、工学系には数学や情報に憧憬を抱く者が少なくないから、医学系よりは典型的理系人になってしまう確率は高い。物理系は工学系以上に数学に近いから、典型的理系人になる確率は工学系よりも高いのだが、物理学には例えば乱流のような体系立ってない分野もあり、そういう分野の人は典型的理系人になる確率は低いだろうと予想する。
 結論としては、典型的理系人は体系に組み込まれたもののみを理論として認識するというメンタルモデルの仮定から、彼らが人文系教養に基づいた文章を肩書のみから評価するということを説明することが出来た。

2015年11月5日木曜日

金融市場の比喩としてのケインズの美人投票

 金融市場の比喩としてのケインズの美人投票はあまり好きではない。その理由は、美人投票というゲームが①各プレイヤーが市場ではなく他のプレイヤーの思惑を考えている②勝利条件が多数派に属することである③それらの帰結として、ゲーム理論的に最適戦略が求まってしまうこと(④各プレイヤーの間に本質的な個性の違いが無く、一様であること)の3(4)つである。
 少し詳しく書くと、美人投票では単純に自分が好きな人に投票するのがゲーム理論的に最適解の筈である。何故ならば、何も考えずに自分が好きな人に投票すれば、その人が一番人気である確率が一番高く(何故ならば、人気な人ほどファンが多いのだから、自分がその中に含まれると考えるのが自然だ)、かつ同じことを他のプレイヤーも考えるので、一番人気になりそうな人として自分の好きな人に投票する筈である。わざわざ「自分は嫌いだけれど他の人からは好まれそうだ」という人に対して投票するまい。複雑な心理戦をせず、自分のことだけ考えて高確率で多数派になり、勝利出来る選択を他の人の大多数が取らないと考えることは不自然であり、そうである以上自分もその状況で勝ちやすい、全く同じ戦略を取るべきである。少なくとも、プレイヤーに完全合理性を想定するならばそうなる筈である。
 では、より比喩として適切なのは何か。その一例はマイノリティゲームである。マイノリティゲームには①各プレイヤーは他のプレイヤーと直接競争するのではなく、あくまで過去のバーの出席人数と競争する②勝利条件が少数派に属することである③その帰結として、最適戦略が存在しない(④各プレイヤーの意思決定が多様であることがゲームの成立条件として要求されている)という特徴がある。
 各プレイヤーは、今までのバーの出席人数から今日のバーが空いているかを予測し、空いていそうなら行こうと考える。この時点で、実は彼は演繹的な完全合理性の世界観を捨て、inductive reasoningによって思考をしている。もし完全合理性の世界、バーの過去の出席人数ではなく他のプレイヤーと直接競争する世界なら、バーが空いているかどうかは確率1/2なのだから、確率的に行動すればよい。少なくとも、確率的に行動して損はないのだから、みんな確率的に考えている筈であるし、そう他の人が思うであろうと自分が思うのであるから、自分も確率的に振る舞うべきであるし、過去の履歴を見ても単なる乱数列、何の意味も無い。では、バーの出席人数の過去履歴を見ている世界とはどんなものか。過去の23、67、55、……のような出席人数を見て、次の出席人数を予想し、少なさそうならバーに行くという様子である。一見無意味な占いに見えるが、他の人も迷信じみた行動原理で動いている以上、時系列データに何らかの法則性が隠れていてもおかしくない。すると、この不可思議な行動に、ある種の合理性が生まれてくる。そしてまた、勝つのは少数派である。だから、絶対に有利な戦略などというものはあり得ない。もしそのような戦略が発見されれば、それを採用する者が増えるにつれ多数派に近付き、最終的には勝てなくなるからである。従って、常に勝ち続ける戦略は存在しない。戦略の強さはその時々の時流に依存している。また、少数派が勝つということは、(他のプレイヤーのことを考えないゲームであるが、結果的に)他のプレイヤーを出し抜いた者が勝つということも含意している。
 このような、常勝の最適戦略が存在せず、他人の裏を掻くゲームというのは金融市場にどことなく類似しているし、なにより、過去の時系列から将来を予想しようという発想は、テクニカル分析なり高性能コンピュータによって為されるHFT(High Frequency Trading、高頻度取引)のメカニズムに近いのではないか。

2015年10月25日日曜日

通俗的個人主義及びその帰結たる相対主義の知的退廃について

他のところに寄稿する予定の文章の一部です。

 深い信念に基づかない、最も安直なニュアンスにおける個人主義――これはしばしば現代社会においては常識とされ、それを弁えない者は迷惑な物として見られるのだが――は必然的に極端な相対主義に陥り、対立を避けるが故に思想的進展の余地を失う。それどころか、かつての思想家や研究者の遺産に目を背けることにもなる。それについて、我々の家族観を引きながらこれを論じる。
私は先日、知人らと集まってその家族、家族観について話し合ったのであるが、そこにおいて支配的な主張は親からの干渉の拒絶と自身の独立、結婚においても伴侶及び子供を束縛すること、されることの否定等であった。また、離婚の肯定も少なからず聞かれた。また、既存の社会構造に制約されることにも否定的である。これらの、通俗的個人主義とでも呼ばれるべきであろう態度の背後に存在するのは、対立する個人は互いに不干渉を貫くことが幸福だとする考え方である。この考え方を支えている原理は3つある。各個人は独立であること、各個人は本質的には不変であり、大きな変化はまず起こらないということ、各個人は自分が何に対して幸福を覚えるのか完全に理解していることの3つである。
何故このような3つの原理の存在が想定されるのか。それは彼等のそれに反する家族観を考え、その家族観を成立させる原理に対立する主張として発見されるのである。即ち、人間は相互依存的存在であり、個人は他の個人や社会無しには存在し得ないこと、人は対立する意見と遭遇することにより、その矛盾を解消しようとしてより高い見識を得、変わっていくこと、人間の認知はヒューリスティックスやバイアスに基づいており、自分の選好すら分からないということである。
そもそも私が先述の通俗的個人主義を批判するのかと言えば、個人の対立の回避を最優先に考える態度は、全ての価値観を同等なものに置く行き過ぎた相対主義に必然的に陥り、これは人類の積み重ねてきた思慮思想、科学の否定であるからである。これが社会の構成員の殆どの信じるところとなれば、社会は本質的に個人の働きかけによって改善不可能な代物となり、個人は構造の奴隷となる。個人の対立を回避し、意見に対して上下を付けることを常に否定すれば、捨て去るべきものも含めた任意の主張が存続することになり、また熟慮の末にかつての偉大な思想家が辿り着いた思想と、世間に通用している単なるノウハウの区別も無くなるであろう。そして対立の否定はそれらの間の矛盾を解消しようという欲求をも人から奪い去るのであるから、命題と対立命題から、それらを統合しようとして全く異なった主張を作ることも無くなり、思想は発展せず、停滞する。各人の考えがこのように固定化する社会においては、力関係及び優先順位は単純な多数決のみに支配されざるを得ない。説得により誰も意見を変えないからである。また自分の中だけで考えを深め変えたとしても、他者がなく自分の中だけで完結した行為であるから、本質的な変化はせず、変化は表層的なものに留まる。もし奇跡的に特定の個人が相対主義を克服したとしても、社会の構成員の大多数は他者からの干渉を拒絶し、自分が変化することを許さないのであるから、社会の圧倒的大多数は依然として相対主義であり、種々の政治的意思決定においてその多数派は必ず意志を通す。このような社会において現行の政策の支持者が少数派に落ち、政策が転換され得るのは老人が死んで新しい子供が生まれる世代交代によってのみである。子は親や祖父母の世代を見ているから、それらの失敗は学ぶことが出来る。しかしそれはあくまで個人の中で完結した限定的な学習に過ぎず、単なる具体的な失敗実例に対するアンチでしかないから、再び今度は別の形で失敗するのは避けられない。場合によっては、アンチのアンチを安直に取って先祖返りを行う可能性すらある。それは例えばリベラルな思想の普及こそが過去の失敗を踏まえた進歩だと信じている人間の多そうなフランスにおいて、322日と29日に行われたフランス県議会選挙第1回投票で国民戦線(FN)が25.2%の史上最高の得票率を獲得したことをどう見るかということである。現党首マリーヌ・ルペンは兎も角、その父で前党首であったマリー・ルペンがしばしば反ユダヤ的言動を取るのはこの一例ではないか。流石に単純な先祖帰りを起こす者は少数派であり、マリー・ルペンは支持拡大を目指す国民戦線から排除されつつあるのだが。
このような状況においては例えば、迷信や差別思想等も減らすことは出来ないだろう。これに対して「他人に迷惑を掛ける、ないし損害を与える思想、行動は個人の尊重という原則に反するものであるから、これを排除するのは個人主義に矛盾しない」というような反論が想定されるが、その考えは理屈としては間違っていないが現実世界において実効性のある形で運用することは不可能であり、別の原理を求めなければならない。
現実において機能しない理由として、迷惑や損害というものが実際には万人が納得出来るように一意に決めることが出来ないことが挙げられる。例えば福島への風評被害の問題を考えてみよう。科学的に言えば、福島県の住民や福島県産の食品を食べた人に対して放射線による有意な健康被害は起こらないということは明らかであり、従ってその危険性を主張するのは福島県民の生活に対する攻撃に他ならない。しかしながら、放射能の危険を言う人々の認識においては、福島は重度の放射能汚染状態にあるのであり、住民は生活を捨ててでも移住することが将来の健康被害を減らし、住民の幸福に資すると思っている訳である。彼等の多くは純粋な善意から意図せぬ加害行為を行っているのであり、これを通俗的個人主義者がどのような論理を以て批判することが出来るだろうか。この場合には科学的に決着が付け得るが、そうでない場合にはどうするのか。また文化の維持等、公共的な目線が入ってくる場合にもこの問題は難しくなる。例えばアパルトヘイトの理論武装に西洋文化による文化帝国主義に反対する文化人類学のロジックが使われたことをどう評価するか。以下一部引用するが、是非これは全文を読んで欲しい。“アパルトヘイトを推進した白人政権は、もちろん政治・経済的な側面を計算し尽くして、計画的にこれを導入したが、この政策に対して文化面での装飾を施し、人びとを同意へと誘った役割を果たしたものの一つに、イギリス系の社会人類学の存在があった(注:「文化人類学」と一般に呼ばれる学問であるが、イギリスではしばしば「社会人類学」の呼称が用いられる)。この経緯について、明快な指摘を行っている著作を、以下に引用する。「当時(引用者注:居住区の隔離が法制化されていった20世紀初頭)の隔離政策のブレーンとして、「原住民」の境遇に同情するイギリス系の知識人が積極的に利用された」「白人権力による征服と抑圧、さらには部分的な同化の容認によって、伝統的なアフリカ人社会は崩壊の危機に瀕していた。白人社会と伝統的なアフリカ人社会を引き離しておくことで、それぞれの集団は、それぞれの価値観に従って生存していくことができる。こうした考え方は、「文化相対主義」を信奉し「原住民の伝統文化の保護」を求める当時の人類学者によって、強く唱導された。」(峯, 1996: 124)”(http://synodos.jp/society/13008/2より、空白と改行を一部削除)
それに対して「それなら他者の行動に口出しするのはそもそも全て間違いなのだ」という反論がありそうであるが、その場合には、例えば生活に金銭的援助を必要としない大富豪が、何故私は税金を払って貧困者を助けなければならないのかという疑問を抱いた時、どのように答えるのか。恐らく「貧困者にも生きる権利があるのだから、政府はこれを援助しなければならないのだ」とでも言うのだろうが、大富豪がそれなら助けたいと思うお前たちだけでやってくれ、俺は何もしないからと言えばどうなるか。「税金を納めるのはやりたいやりたくないの気持ちの問題以前の義務だ」としか答えられないであろう。しかしこうなると、思想の如何に関わらず納税を絶対の原理として持ち出す訳であるから、通俗的個人主義者の、既成の社会の構造に束縛されないべきという原則に違反し、通俗的個人主義者の立場からの説得ではなくなる。結局納税には誰も違反してはならないと言っているのであるから。もしここで「金持ちなら税金を納めろ」と金持ちであることの特殊性を強調して乗り切ろうとすると、納税は絶対の義務だという理屈はもう使えないのであるから、その主張は相手の倫理に訴えざるを得ない。しかし倫理!これはまた通俗的個人主義者が嫌うものである。しかも相手の精神性、ないし論理矛盾ダブルスタンダードからの反論ではなく、お金を持っているという唯々外面的性質によって、人間内部を束縛しようとしているのである。普段は弱者は弱者らしく振る舞え等の主張をおかしいと思う人々が、別の人々に対してはその外面から内部が規定されるべきだと考える訳である。
これに対して「言いたいのはそうじゃない。大富豪は既に十分な幸福を得ているのだから、それを少し減らしても貧困者の低い幸福が大きく伸ばせるならそれが良いじゃないか」との反論が来るだろうが、この主張は本質的に、ある一定の基準を満たせば一部の個人に干渉して全体での幸福が増えるようにしても構わないということを言っている。しかしここで第二の問題が発生する。その線引きの基準は、一体どこにあるのか。例えば十分に子供を作らなければ労働者が不足し高齢者を実質的に見殺し、またインフラ維持が出来なくなり我々の生活水準が大きく下落する訳であるが、子供を設けることを不妊者を除いて義務化すべきなのか。すると「法律になっていないのに、強制されるのはおかしい」という反論が先ず挙がるだろう。しかし今は法律の話をしているのではない、それ以前の問題の話をしている。よしんば法律の話をするにしても、法律の縛りが無ければ何をしても非難される覚えは無いとすると、例えば在特会やしばき隊のデモを批判するのは他者に干渉しているから間違いなのか。「いやいやそれは極端な話だ、在特会やしばき隊は明らかに周囲に加害しているじゃないか」というかもしれないが、しかし子供を作らないことも他者を加害していることには変わらない。被害者と加害者が誰なのか具体的に列挙することが困難かつそれらが重複し、また責任が多数の人々に薄く広く分配されている等が違ってはいるが。ここで「間接的に被害が出ることは何をしてもそうなんだから仕方ないことだ。直接の加害行為だけが加害だ」という反論がありそうであるが、そのロジックを採用するなら納税を拒む大富豪は法律的には犯罪者ではあるが、少なくとも加害者ではなく、従って彼が罰せられるのは、唯単にそれが既に法律であっただけの理由であり、不当である。「いや法律だから仕方ないでしょ、認めなきゃ」と言われそうであるが、もしそうであるならば、かつて同性愛行為が違法であった時にはあなたは同性愛行為を処罰することに反対しないということですかと訊きたい。加害者でない者を単に法律に従って罰するのを肯定するのであれば、その時代においては必ず同性愛行為に反対せねばならず、今日のように解放されることは無かったであろう。法律で定まっていることであっても、合理性を欠いているものは何らかの運動により否定され、法律は改訂されるべきである。果たしてここに、場当たり的な感情ではなく、相互に矛盾しないロジックとして大富豪に納税させる主張を構成することが出来るのか、いや出来まい。そして同時に子供を作らないことを倫理的に非難することを個人への干渉だとして退けるものとしてそのロジックを構成するのは、尚更困難であろう。しかしここで大富豪の脱税を許すと言い放てば、それは貧困者を見捨てることになる。ここにおいて、通俗的個人主義は思想として完全に破綻する。

2015年10月21日水曜日

宮田氏の評に対する返答

 先日の記事(http://seigaikijin495.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html)に対して宮田氏が論評を載せていた(http://yagatekikoeru.blogspot.jp/p/blog-page.html)ので、それに対する返答を書く。
 宮田氏の文章を読んで感じるのは、ロジックが不鮮明、ないし掴みづらいということである。そういう感想それ自体が恐らく彼曰く“他にも思想=文体があるにも拘らず、すべての文章が彼と同じ「アイデア」で書かれている、と想定している。”ということなのだとは思うが。宮田氏の文章で一番の心臓は“このことは慣れている人には自明のことなのだが(以下略)”の段落だと思うのだが、比喩がありながらも具体的な逸話がなく、その点が私には分かりにくい。なので私がその内容を、極一部ではあるのだが、理解しようと努めた時には次の段落に述べるアリストテレスの喩え話を作らなければならなかった。これは個々人による納得の生じ方の違いなのかという気がする。
 間違っている可能性が低くないことを承知で言えば、恐らく宮田氏の念頭にあるのは、ある一つのテキストの読まれ方が一つに固定されてしまうことへの危惧、コンテキストの変化によってその文章が持つ「歴史的(?)」意味が変化していくことから目をそらさないことなのではないかと思う。私の憶測であり、史実を反映しているとは言えないので妥当性に疑問があるであろうが、次に挙げる喩え話の真偽は議論の結論には影響しないと考えられるので、それを述べさせてもらう。また、著者と著作の区別も無視する。アリストテレスは同時代人から見れば医学や自然学にも深い造詣があり、狭義の哲学者というよりはあらゆる学問の専門家として思われていたであろう。少なくともイスラム圏においては、教義の理論武装に使われた哲学者としての側面だけでなく、イスラム科学の発展に大いに貢献したことから推測されるように、偉大な科学者でもあっただろう。イスラム圏に渡ったアリストテレスがキリスト教圏に流入した当初は、哲学と教義の矛盾が問題となった。アリストテレスは、キリストへの反逆者だと捉えた者もいたに違いない――アリストテレスの生きていた時代には、まだキリストは生まれてすらいなかったにも関わらず。しかしトマス・アクイナスがアリストテレスとキリスト教を統合すると、今度は逆にキリスト教の根本思想になった。すると、今度はガリレオ等の科学者の学術的活動を阻害するようになり、アリストテレスの科学者としての側面は失われ、頑迷な宗教者になった。(余談であるが、現代においても少なくとも物理学者はアリストテレスを科学者だとはあまり思っていないだろう。物理学の歴史は多くの場合ニュートン、そうでない場合にはガリレオから始まる。)そして現代においては、アリストテレスは宗教者としてではなく、専ら哲学者として見られ、科学活動については哲学の一部として考えられている。このように、アリストテレスは時代と読者の相違によって全く違った理解がなされており、確かに私が先日述べた“作者のメンタルモデルを考えるということ”の範疇を超えていると考えられる。アリストテレスが何者であるかは、アリストテレス本人だけでなく読者やコンテキストにも依存している。読者が自分自身の中にあった何ものかをアリストテレスに投影していると言えるかもしれない。尤も、このアリストテレス問題は私が見落としていたことのあくまで一つに過ぎず、恐らく宮田氏の述べたかった内容はより広範なのではないかという気がするが。
 しかし、私がアリストテレス問題を先日の記事において考えていなかったのは、先日に想定していた問題はより短い時間スケールの問題だったからである。社会や政治を語る時、しばしば一面的、それどころか単なるこじつけや言いがかりから煽情的なタイトル、主張を作り、拡散するような問題を主に考えていた。例えば福島県への風評被害等。確かに、社会や政治、それどころか科学においても複数の解釈、読解は存在するものではあるが、それは必ずしも任意の読み方が同等に正しいということを保証しない。実際には、明らかに間違った読み方が存在する。例えば「原発腫瘍は放射線から発生したものだ」等。私が著者のメンタルモデルや歴史の重要性を主張したのは、如何にしてその主張が生成されたか、それ以前の積み重ねを踏まえることにより間違った解釈を取り除くことを念頭に置いている。これを怠れば、絶対にある一つの解釈が正しいという権威主義に陥るか、さもなければ全ての主張は同等という悪しき相対主義に至るかしかあり得ない。このような状況であった為、アリストテレス問題は見逃されたのである。
 また、ビジネス書や自己啓発本に関する議論に関しても、言わなければならないことがある。書いていなかったことを後から付け加える訳であり、卑怯なのだが容赦して欲しい。ビジネス書や自己啓発本というのが具体例として挙げられているのは、理学系の所謂意識低い系が最も馬鹿にするものであるからに過ぎず、議論において哲学に通じると言いたかった本はまた少し違っている。私としては、ビジネス書や自己啓発本でさえ思想に通じる可能性があるのだから、『私が想定している本たち』をや、と言いたかったのである。あの段落の目的は、本来は理学系意識低い系の啓蒙である。彼らは明瞭かつ一意的に解釈出来るものにしか高い価値を置こうとしない。また、同時に具体的なものを卑しいと考える。具体的な事例は必ず理念と比べて歪んでいるのだから、唯一性を愛する彼らがこれを嫌うのは整合的である。これらの価値観により、彼らは数学や情報、或いは理論物理を好み、その他を見下す。こういう手合いは理系にいれば無数に見るものであって、その精神性は、理学部のそれと比べれば薄いとはいえ、工学部にすら溶け込んでいる。これが理系の学生の間における、「数学的でない」ことを勉強することの軽視に繋がっている。例えばそれは工学倫理であったり、また機械や構造物の設計において如何にして要求項目を達成し、創造を成し得るかという人間の頭の使い方、発想の技法、マネジメントであったりする。このような具体的な例は幾らでも挙げられるであろう。では、数学的でないものを見下す態度は何故批判されなければならないのか。その理由は、世に言われる理系不遇論の殆どが単に文系なり日本社会が悪いと言うのみであり、理系の非理系的なるものへの無知を無視しており、それが問題解決の遅れ、ないし理系による他への逆恨みを醸成しているからである。理系が不遇だというのは私に言わせれば理系自身の非理系的なるものの軽視に伴うある種の社会的能力の欠如が原因であり、理系であること自体が不遇をもたらしている訳ではない。文系や体育会系であろうと社会的能力が欠如していれば不遇は免れない。それ自体は社会が高度に組織化され、個人のみでは生活に必要なものを何一つ生産出来ないことから生じる必然であり、解消することは出来ない。であるから、理系不遇の問題を解決しようと思うのなら、理系自身が勉強することが求められている。にも関わらず彼らは不満を言うだけであり、問題解決に対してなんら実効性のあることを主張、行動することがない。このような態度は、少なくとも私にとっては不快である。尤も彼らは、口では非理系的なるものを軽視などしていないと言う。文系的教養、特に哲学は重く見ていると。しかしそれは偽りである。彼らは文章や主張が哲学等の学問の名において渡される時にはそれを尊敬するような素振りを見せるが、内容を理解している訳でなく権威に盲従し、また教養や哲学を解さない者として軽蔑されるのを嫌っているだけであるから、肩書無しで教養や哲学を踏まえた文章を渡されると堂々と自分がその文章を理解出来ないことを誇り、この文章は論理の体を成していない、空虚なポエムだと言い始める。彼らを救うにあたってどうすれば良いのか、それが問題意識としてある。そこで私が出した結論が、(事実関係が科学的に間違っている等の一部の例外を除いて)全ての文章を尊敬し、歴史や著者のメンタルモデルを踏まえることで字面以上のことを学ぼうということなのである。彼らにいきなり哲学や思想を与えたところで分かったふりをするだけで無意味だ、それらを解するにはそれなりの積み重ねが必要である。彼らに必要なのは離乳食である。理解に難し過ぎず、かつ内容的に浅過ぎない。だが彼らは数理を貴ぶ理系のプライドにより、それらを受け付けない。仮令一部を受け付けたにしても、同等の深みを持つ本たちに対して自ずと序列を付け始め、どうしても拒絶する本が間違いなく出現する。そうであるから、ビジネス書や自己啓発本といった彼らの中で最底辺の価値すら持たないものにさえ本当は価値があると思わせ、如何なる文章に対しても深く理解してやろう、多くを学んでやろうという精神性を身に付けてもらう必要がある。分かり易そうに見えるものを見下す精神を、捨てねばならないというのが本意である。

2015年10月18日日曜日

思想の理解と歴史、著者のメンタルモデルから源流の哲学を辿ることについて

 文章を読む際に書かれた文字列の意味そのものを理解しようとするのは明らかに間違いである。体得すべきなのは、書いた著者のメンタルモデル、即ち、何を想定して何を念頭に置いていたのかということである。人間が文章を書く時、文章という表現形式の限界か、自分の考えていることをそのまま書き表すことは出来ない。必ず内容の歪みや欠落を伴うし、かつその変形の仕方はその個人の特性や文章という表現形式等の影響により、均一ではない。例えばある人はある主張の前提となる考えは常識であるとしてつい書き忘れてしまうかもしれないし、そもそもカオスアトラクタのような文章という表現形式ではそもそも表現出来ないものもある。そうであるから、いくらある著者の文章を大量に読み込んだところで、彼が表現したかった真の内容からの乖離は一定以下までしか埋まらず、理解は深まらない。(もし歪みや欠落が純粋にランダムであったならば、大量に読めばある部分で書き落とした内容が他の部分で補充され、理解は深まっていく筈であるが。)このことは以下展開する論の大前提とする。
 さて、では文章は如何にして理解されるべきか。そこで重要となるのが歴史である。著者がどのような時代に生きていたか、その時に問題になっていたことは何で、そして何故それに対し著者が心を痛め、砕いたかという問題意識を共有する必要がある。例えば経済学において全く以て相反する理論が同時に存在し、かつそれらが共に尊敬を受けるのは何故か。経済学の理論は本質的に「人間に何らかの行動原理を仮定し、その仮定から数学的に結論を演繹すること」であるから、行動原理の仮定の仕方によって、任意の自分に好ましい結論を導出することが出来る。複数の対立する理論の雌雄を決するのは理屈の上では統計によって為されるべきであるが、現実的には統計の不確実性、またそもそも何を計量するかという恣意性の存在等により、不可能である。そうであるから、理論の良し悪しはその理論を考案するに至った思想的展開、根源的問題意識を考え、その問題が現在においても存続しているのか、また提案される解決法が有用に見えるのかといった、考案者のメンタルモデルに踏み込む必要が出てくる。同様の推察は論理展開を少し変えれば経済学以外の他の事象にも適用可能である。即ち、文章は歴史無しに理解は出来ない。
 著者のメンタルモデルに踏み込んで考えれば、例えばビジネス書や自己啓発本を読んで哲学書を理解し、また逆に哲学書を読んでそれを誰にでも分かるビジネス書や自己啓発書に翻訳するようなことが出来ないといけない。詳細に述べよう。恐らくビジネス書や自己啓発本は、著者が労働の中で得た体験を巷に溢れる本から理屈を引っ張ってきたものである筈である。著者が理論補強において参考にした本たちも、また別の本を参考にしていた筈である。この推論を続けていくと、最終的には間違いなく哲学書に至る。この世の思想の原型の殆どは哲学者が既に編み出しているものであるからだ。ということは、一見軽薄に見えるビジネス書や自己啓発本もその源流には哲学があり、では何故本来抽象的であり何らかの実用目的にはそぐわない哲学が実利目的の本で使われるかと言えば、それはビジネス書や自己啓発本の著者の体験が両者を結び付けるからである。著者のこうすれば何故か上手くいったという多数の経験に対して、それらを統一的に説明する一貫したストーリー、理由づけ、解釈を哲学が与えているのである。そうであるから、著者のメンタルモデルを文章から推測するように読んでいけば、源流となった哲学の一端に到達することが出来る筈である。これがビジネス書や自己啓発本から哲学を理解するということである。その逆である、哲学書を自分なりにビジネス書や自己啓発本に翻訳してみるというのは、もう説明は不要だろう。
 このことを理解せず、「書かれた文章はそれ自体のみで十分に理解出来る」と考える者がどういう者なのかと言うと、それは例えば所謂意識高い系であったり、反対に真理を目指す基礎学問を無上の価値と見做す、学問盲信者であったりする。意識高い系が自己啓発をし就活をしようとも思想になかなか至らないことは多々見られることである。学問盲信者は学問だけが思想に至る道であると思い込み、意識高い系を思想に到達し得ない者として見下す。これの実例として、少なくない数学や情報系が自分がよく知りもしない哲学をただ哲学であるとの理由で尊敬し、内容的にはそれに劣らぬものの無名の文章に関してはポエムとして軽蔑するのはよく観察されることであろう。結局、意識高い系も学問盲信者もいずれも等しく間違っている。

2015年10月5日月曜日

要不要

 学問分野とか教育とかは特にそうだと思うのだが、ある事物について必要性を訴える時にはお金にならない価値があるとか心の豊かさだとか言い、逆に排除すべきだと主張する時には採算だとか収益とか経済的要因が挙げられる非対称性が気持ち悪い。みんなが自分の利権についてそう主張すると、どうやったってまともな合意形成に至らないし、扇動による数の暴力に訴えるしかなくなる。例えば基礎学問が好きな人とかだと、しばしば「哲学科や数学科は大量の使い物にならない人を生み出すが、一部の天才を生み出すから、それで良いのだ」という主張と「学際系の分野は天才を生み出すかもしれないが、平均的な学生の質が悪いから大学から無くすべきだ」という主張を同時に言うことがある。そういう人の本音は「真理を目指している基礎は偉く、応用は産業界の奴隷だから消えて欲しい」なのだろうが、そう考えている自分を直視したくないからその場しのぎの理屈を別個に作り、結果矛盾を露呈している。前者では真理とかそういう非経済的なことを言い、後者では大学教育のコストとその結果得られた果実(平均的な学生)の考量という経済的なことを言っている。基礎系と学際系の位置づけにおいてさっきの人と完全に正反対な人がもしいれば、彼らの間の対話は成り立たず、多数決にしかならないのは想像がつくだろう。お互いに自分の有利な場所では人間だとか価値観の問題に持ち込むから相手がお金の話をしても聞き入れる訳がないし。
 結局、個人的には社会において合意形成を取るには乱暴な近似でも良いから全てお金の問題で考えないと上手くいかないと思うんだけどね。少しは例外はあっても良いと思うが、現代ではその例外が多過ぎるように見える。

2015年9月25日金曜日

基礎でも応用でもない学問

 しばしば「産業界の圧力に押されて基礎学問が軽視されている」という主張が為され、そこでは基礎学問の例として数学や哲学、或いは物理学や文学が挙がられているが、これは適切だろうか。そしてそれらの基礎学問は真理を志向しており、経済的要求に従う応用とは違うということも同時に主張されることが多い。例えば松本眞(http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/~m-mat/NON-EXPERTS/SHIMINKOUEN1999/SUGAKUKAI/res5.pdf)等が典型だ。
 しかし、学問は真理を志向する基礎と経済的要求に応える応用とに分類出来るという考えは明確に間違っている。例えば文化人類学はどちらに分類されるのか。抽象的に思考を重ねて真理を追究せずにフィールドワークと身体感覚を重視しているから基礎ではないだろうし、しかし同時に何らかの産業的要求に従ったものでもなく、応用とも呼び難い。学問を基礎と応用に分けるという考えは、どちらにも分類されない学問への無知の表出でしかないのである。
 加えて、基礎学問という括りを以て、数学と哲学を仲間と見做し、それらに迫っている危機の原因を同一視することも批判したい。数学に関しては所謂実学に押されているという認識でもそう間違っていないかもしれない。しかし、哲学や文学にとって本質的なことはそれではない。今後哲学や文学らしい文学はそれ単独では人間や社会を語り得ないことである。即ち、心理学や文化人類学、経済学等の人間科学、社会科学が発達し、「自分はこう思いました」というレベルで人間や社会を語ることが出来なくなっている。例えばシェイクスピアを引き合いに人間の心や動きを語ったとしても、それは単なる思い込みであるとか、あくまで例外であって多くの場合には人はそうはしないだろうとか、いくらでも否定されてしまう。他にも内田樹とか東浩紀みたいな現代思想系の人が、現実の事象を語る時にしばしば全く関係のない物事と物事の間に関係を妄想し、陰謀論を展開することも例として挙げられる。今や、哲学や文学のみを以て人間や社会を語るのは意味がないどころか、その知名度や肩書によって真に有益な議論を覆い隠してしまい有害なのである。文学や哲学の重要性、価値を人間を知ること等に求めるのは最早不可能だ。そして今後は現実世界の事象を語る時に、哲学や文学は信用されなくなっていくであろう。であるから、哲学は現実世界の事象を扱うのを止め、完全に抽象的な、ないし空想の世界を扱わざるを得ない。しかしそうすると今度はソーカル事件のような問題も起き得る訳で、ではどうすれば哲学や文学が学問として生き残っていけるのか、これが本質的な問題である。これは丁度写真が登場した時に絵画がどう発展すべきか思い悩んだのと同じである。現実世界を映すのなら、哲学や文学より実験やフィールドワークをやる学問の方が絶対に強い訳で、これは真剣に考えねばなるまい。
 最後に、特定分野の学問の排斥がもしあるとすれば、それは基礎系学問よりもフィールドワーク系の方が先だということを述べておこう。基礎系の学問は天才ならばポンポン成果を出すことも出来るが、フィールドワークは10年単位の時間が掛かり、かつ天才も凡人と同じ程度の成果しか出せない。産業界や文科省の陰謀無しでも、学術界が自己生成したpublish or perishの論文量産文化の存在だけで死に得る分野なのだ。スモールワールドネットワークのダンカン・ワッツもそれ以降スモールワールド並みの派手な成果を挙げていないのも、フィールドワーク系に移ったかららしいという話もある。社会の圧力で基礎系が迫害されているという話の前に、現に研究が厳しくなっているフィールドワーク系を救うことを主張したらどうなのか。

個人的な印象として、数学系の人はしばしば哲学に夢を見過ぎるように思う。哲学の実体を知ろうとせず、偶像化した「哲学」を自分の主張の都合の良い形に拵えて崇拝している。
 

2015年9月11日金曜日

全てを学ばないと、一つも分からない

 学問というものは、全ての分野を一通り学ばなければ、自分の専門となる一つの分野でさえ真には理解出来ないのではないかと思う。特に社会科学ではそうだろう。というのも、学問の成果を実社会で使う際には、狭い学問範囲から出した最適解は他の学問分野によって導出されるような制約条件を満たしていなかったり、他の学問分野の対象の部分に大きな負荷を転嫁している可能性があるからである。
 極端に単純化した喩え話をしよう。教育学者の教育に関する意見が絶対に通る社会があったとしよう。ここで、「最高の教育」を実現する為にコストを無尽蔵に掛けたら、他のことをやる費用が無くなるし、それは例えば景気刺激策や社会保障等、他の分野の削減を意味する。つまり、自分の分野の予算拡充が過ぎれば他の分野を削らねばならないから、「最適な教育」というものは教育学の知見だけからは決して決められないし、決めるべきではない。その実例は例えば韓国で、大学受験当日に交通機関や警察が受験生に協力する等、明らかに日本よりも教育に熱心であるが、韓国の教育が日本のそれよりも優れているかというのは難しい。恐らく、教育に掛けるコストを削って新規事業立ち上げの支援や内需拡大策を取り、財閥主体の経済体制からの脱却を図った方が教育にとっても実は良いのではないか。そうなるメカニズムとして考えられるのは、教育学の範囲では外部から所与として与えられる条件が、社会情勢の変化によって変化し、改善されるというものである。即ち、教育制度や教育文化といった、教育に関係した分野だけから教育がどうあるべきかの最適解を導くことは出来ないし、この理屈は教育以外の分野にも言えるというのが私の結論である。

 私は大学教育の最大の目的は職業研究者の育成や研究そのものではなく、寧ろ民主主義社会で健全な意思決定の出来る教養人の育成だと思っているから、政治哲学や経済学等、全員が学ぶべき学問というのがあるんじゃないかとも思っている。

2015年9月9日水曜日

生き方の多様化と将来への悲観

 生き方の多様化は必然的に将来への悲観をもたらし、一部の強い人間以外にとっては寧ろ生活が苦しくなる。一見「個人の生き方がどのようなものであれ、それを肯定する」という考えは個人を幸福にするように見えて、実はそうではないのだ。それを理解する鍵は合成の誤謬にある。
 社会的状況が所与で不変であり、その前提の下であれば確かに多様な個人の生き方を認めた方が、自分の望みを肯定される確率が高いので幸福であろう。しかし、社会は決して所与のものでも、不変のものでもない。個人の多様な生き方を許容した時点で、社会的状況が大きく変化している。「多様な生き方を認める」ということは、裏返せば「特定の標準的生き方を強制する」ことの否定である。これだけならまだしも、実質的には「特定の標準的生き方の提示をも否定する」ことにまで、強硬な多様化論者の個人尊重の理屈に押し切られて進んでしまう。すると、何歳で何をするか、ロールモデルが失われて殆ど指針が立たなくなってしまう。社会に色々な人があり過ぎて、誰を自分の参考に出来るのかが分からず、10年20年後に自分がどうなっているのか予想出来ない。そもそも、多様化によって「将来なり得る人間のパターン」が増えている訳だから、その内のどれになれるのかの予測精度は必然的に落ちるだろう。だから高い将来の不確実性によって短期的な損得しか考えることが出来なくなり、長期的な行動、例えば結婚や出産、自宅の購入等が困難になる。このような世の中では、どのような状況でもやっていけるような一部のエリートしか安心して暮らせないし、非エリートの生活の崩壊によって経済も失速するであろう。大多数の平凡な人にとっては、標準的な生き方が、押し付けがましくとも必要であると結論付ける。

 直感的にも、自由な生き方よりもリストラや倒産の恐れの少ない企業に就職して安定した生活を送りたいと思っている人の方が圧倒的に多そうな時点で、このロジックは正しいんじゃないかと感じている。「就職が難しいことへの不安」とか、どう考えても「生き方を強制されて自由が無い」ことへの不満ではなく、「標準的なライフスタイルを得ることが出来ない」ことへの不満であろう。自由を得て嬉しいのは強者だけであって、多くの人にとってはデフォルトの選択肢が幸福である方が良いのだ。

2015年8月30日日曜日

無駄をなくすと、無駄は減るのか

 世間では無駄をなくすのは常に良いことだとされているが、本当だろうか。寧ろ、多くの場合には無駄をなくしたつもりになっていても実際には減っておらず、他の人に押し付けただけだったりするのではないか。例えば、IT企業において「エクセルスクショ貼り」は完全な無駄と考えられているが、果たしてそうだろうか。もし、こういう誰でも出来る作業をなくしたとすると、職場で求められる技術レベルが上がり、失職する人が出てくるだろう。再就職が難しい場合、彼らは生活保護なり何なりで養わなければならないが、それは企業が「無駄」を持ちながら彼らに給料を払って養うのと、果たしてどちらがマシなのか。
 簡単な数理モデルを導入してみる。一人が生きるのに必要な資源を1としよう。最初に会社には100人の人がいて、100生産し、各社員は1の給料を受け取っているとする。この会社が、働きの悪い社員をリストラして効率化したとする。今度は社員50人、生産は75とする。すると、会社にとって生産の効率性は1.5倍になっている。利潤という点で言えば、例えば社員の給料を1から1.2に増やしたとすると、会社の手元に残る資源は最初の状態より15増えている。会社からリストラされる筈のない優秀な社員も会社の持ち主も、みんな最初より多くの資源を手にするから、この効率化にはほぼ必ず賛同することであろう。
 これだけならハッピーかもしれないが、会社を離れて社会全体を見てみると、リストラされた50人も養わなければならない。すると、効率化はしても生産の総量が減っているこの変化は、社会を貧しくする方向に向かっていることは明らかである。彼らが再就職出来れば問題ないのだが、全ての会社が「生産性を落とすような劣った労働者は雇わない」方針であるならば、再就職は困難であろう。つまり、局所的に効率化した結果、全体としては逆に悪化するのだ。
 このような論理はエクセルスクショ貼りだけでなく、他の事例にも応用出来よう。例えばある会社は家庭用ゲーム市場が衰退したのでその部署を縮小し、元々その部署で働いていたゲームデザイナーらをスポーツジムの清掃員か何かに配置換えしたらしいとのことでオタクから叩かれていたが、そのバッシングは本当に妥当だろうか?再就職が難しい人を雇用し、何らかの生産活動を行わせ、給料を払っているのだから先述の論理に従うと、これは善である筈だ。リストラするよりもずっと良い。そもそも、本人がその仕事よりももっと生産量の高い職場で働けるとするならば、そっちの会社へ転職する筈である(個人の生産量∝給料という近似を入れた)から、ジムで働き続けていること自体が、今の社会の中で彼らにとって一番生産量の多い職場がジムであることを表している。彼らをリストラしたところで、彼ら自身はもっと給料が低い会社で働かなければならないし、社会全体で見ても、社会全体の生産量は落ちる筈なのだ。国民全員を食わせていかなければならない現代の国家では、個々の企業の生産性ではなく、国全体での生産量を見るべきである。

2015年8月29日土曜日

労働の神話

 世間には労働に関して陰謀論的な神話が流布しているようなので、それを否定するような簡単なメモを記す。

①政府は教育水準を意図的に下げて愚民化政策を実施し、企業の従順な奴隷を作ろうとしている

 そんな訳はない。そもそも、この議論の前提には「沢山勉強した賢い人は、企業に搾取されない」という考えがあるが、そもそもそれが間違っているように思う。何故ならば、主張に対する反例が多々ある。例えば、韓国は日本よりも明らかに教育熱心で、大学受験を国家全体を挙げて支援しているが、そんな秀才たちがサムスン等に就職すると、厳しい労働条件の下でこき使われている。これを見るに、勉強を頑張ったからと言って企業におとなしく従わなくて済むなんていうことは全くないと考えるのが自然であろう。それどころか、これまでずっと勉強してきて漸くサムスン等の一流企業に就職出来たのだから、辞めてしまっては全てが無駄になると考え、より一層企業に対して忠実となる可能性すら考えられるのではないか。ゴールドマンサックスには社員ではなくインターンシップ生(!!)の過労死まであるし、学問が人間を自由にするというような考えは先進国では最早成り立たないのではないか。

②全ての仕事が機械化・自動化し、ベーシックインカム等により人間は働く必要がなくなる

 実現しないだろうし、もし仮に最終的にそうなるにしても、移行期間において大きな社会的混乱が起きるので、ユートピアではないだろうというのが私の考え。働く必要のある人の数が少なくなっても、一部の仕事は人間がやる必要があるだろうし、それらの仕事の中には社会秩序の維持に不可欠なものもある筈だ。それらは、必ず誰かにやってもらわなければならない。その時、どれくらいの賃金で働いてもらえば成り立つのか。働く必要のない社会では、働かなくても生活出来るだけのお金を配布している訳であるから、これらの労働者に支払わなければならないお金はかなりの高額になるのではないか。そうなると、結局インフレになり、働かなくてもいい社会であるという前提が崩れるのではないかという気がする。若しくは、不労階級と労働階級に分離し、どちらかがもう一方を差別する社会の到来かもしれない。歴史的にも、嫌な仕事を被差別階級に押し付ける事例はいくつか存在した訳であるし。また、機械化や自動化にすごく熱心な企業であるAmazonが恐ろしく厳しい労働環境だということを考えると、機械化や自動化で便利になる人もいるが、その機械やサービスを提供する側は割と地獄なんじゃないかなって。

③教育を強化すると低所得者層が経済的に成功する可能性が上がる

 ここで言う教育の強化とは、主に大学進学率の向上みたいなものをイメージしている。確かに、高度な知識や技能を要する知的職業は存在するのだが、その絶対数は少なく、輩出される大学生もしくは院生の数よりも少ない。それにあぶれた層は所謂普通のホワイトカラーに行くのだが、それらでは何ら特別な能力を要求されておらず、大卒者がそこへ行けるのはシグナリング効果に過ぎない。大学に行くことによる所得向上効果の大部分がシグナリング効果と言えよう。すると、低所得者層を優先的に大学に入れ割合を上げる等しない限り、そのホワイトカラーの職の雇用出来る人数が限られている以上、大学に行きホワイトカラーになってお金を稼ぐ低所得者層出身者が増えるということはない。そもそも極論、全員が大学に行くようになれば、低所得者層が大学に行ったからといって豊かになれるという訳ではない。限られたパイをシグナリング効果で奪い合うゲームである限りは。寧ろ、何らかの事情で大学に行けない人は、今以上の苦境になるであろう。皆大学に行くのが当然であるから、大学に行かなかったのは何らかの欠陥がその人にあるに違いないと考えられて。日本以上に大学進学熱が高い韓国において、大学に行けなかった人はどれだけ苦しいのか考えてみるとこういう結論が出てもおかしくないのではないかという気がするけれども。
 そもそも、階層間移動の容易性って救貧において最優先されることであろうか。それよりも、どんな職業に就いたとしても、普通に生きることが出来るお金を稼げる方が大事なのではないか。「いつでも大金持ちになれる可能性が十分あるけど、貧しい人は餓死寸前」な社会よりかは、「階層はなかなか変わらないけど、餓死はあり得ない社会」の方がマシではないか。であるから、救貧には大学教育の充実よりも公共事業による雇用増加の方が良いのではないかと思うのだけれど。

2015年8月27日木曜日

SSC輪読会【6】【7】

 SSC輪読会の第6、7回は11章(Combining Mathmatical and Simulation Approach to Understand the Dynamics of Computer Models)の補足ということで、ABM(agent based model)の解析解の導出を、テキストから離れて具体的なモデルで行います。題材はminority gameの臨界点です。その計算過程を詳細に記したpdfをここに上げます。間違い等ありましたらご連絡ください。

https://db.tt/a9jvtsiY

2015年8月25日火曜日

理解することと問題が解けることの違い

 特に理系の人は、ある理論を理解することと問題集の問題が解けることとを混同しているのではないかという気がする。実際にはこれらは別であるのに、それを認識する人は稀というか。
 何故こんなことを言い出すのかと言えば、問題が解けるようになって理論を理解したと思っても、その理論を使って現実の事象を説明出来る人は意外に少ないと感じるからである。現実の事象と結び付かずに単なる論理操作として「理解」しているのみだと、社会科学では特にそうだと思うが、容易にダブルスタンダードの誤りに陥る。そこで整合性を取らなければならないと気付くには、現実と一体となった形での理解が必要なのかなと。また、問題集の問題になる、試験に出るような部分はよく定式化された部分だけであって、どういう思索を経て定式化されたのか、その定式化の欠点や例外はどこか、ということにも無頓着になり易い。
 そもそも問題集の問題を解く為に勉強している訳でもないし。例えばε-δ論法だって、問題を解くことが本義ではなく、例えば複素関数論で微分可能性とコーシー・リーマンの方程式の関係を証明する等の、更なる学問領域の発展・拡張とかに使われるべきものだし。試験の専門家でなければ、複素関数論でε-δ論法が登場したときに理解出来ればそれで十分であり、問題集の問題を解ける必要はないんじゃないか。
 どうして今になってこんなことを言い出すのかと言うと、友人が「自慰行為は単なる消費だ」というようなことを言ったので、消費があるなら生産や分配もある筈だとマクロ経済的に考えたからである。この場合だと、人間一人からなる系で、生産されたのは快楽を感じさせる電気信号であり、それらが行為者に全て分配され、行為者がその全部を消費して効用を得たと。こんな一見馬鹿馬鹿しい現象も見ようと思えば日常的でない観点からも見ることが出来るのだなと実感し、どんなものに対しても物の見方を提供出来るポテンシャルが学問にはあり、それを引き出せるかが理解なのかなあということである。

2015年8月18日火曜日

自衛と侵略と善悪について

 WW2における大日本帝国の行動について語られるとき、しばしば自衛か侵略かが話題となる。大抵の場合、右派は自衛を、左派は侵略を主張し、そこから善悪を導出しようとする。しかし私に言わせれば、それはどちらもナンセンスである。というのも、両者の立場は共に「自衛=善、侵略=悪」という単純な二分論に基づいていて、悪の自衛ないし善の侵略の可能性を排除しているからである。このように論じる理由は、決して、巷によくあるような「自衛の名の下に数多くの侵略が行われてきた」からではない。この論法においても、本質的には「自衛=善、侵略=悪」という構図に囚われている。私が懸念するのは、関東大震災での朝鮮人虐殺や原発事故後の福島県への風評被害等、「行為者本人の目線からは紛れもなく自衛だが、外部から判断すると不必要かつ過激な攻撃であり、悪である」行為である。このような行為を抑止するには、理想的には正しい情報と冷静な判断力を持てということになりそうだが、それは実現性が薄い。何故ならば本人たちは自分が正しいと確信してしまっているからだ。そこで、私の対案として、「悪の自衛行為」の存在を提案する。自衛行為であっても、無条件で肯定はしないということである。過剰防衛との違いは、「やり過ぎたら悪」なのではなく、「やり過ぎなくても本質的に悪」の場合が存在すると主張する点である。
 本質的に悪の自衛行為の例として、次のような状況を考えてみよう。ある国Aが極秘に核開発をしている。その情報を掴んだ別の国BがAに先制攻撃を仕掛けた。これに対しAは反撃したと。この場合、先に攻撃したのはBであり、Aは反撃しただけなのであるから自衛であろう。しかし、善悪という観点では恐らくAが悪になるのではないか。さて、この例で言いたかったのは「悪の自衛」が概念的に存在することだけであって、それ以上はない。このようなシンプルなロジックがそのまま関東大震災や原発事故に応用出来るという訳ではないが、「自衛=善」という視点は壊れたのではないか。
 私の主張としては、以前は自衛はそれ自体暴走する可能性があるのに、生存欲求を否定したくないあまりに自衛を善、ないし少なくとも否定出来ないものと今までは見做してきた。しかしそれは自衛行為による被害者を黙殺することに繋がりかねないことである。自衛は悪ではないという免罪符の下の暴走を防ぐために、自衛も悪になり得るという観念を一般化するべきであると。ただしここで難しいのは、どういう自衛が善でどういうのが悪なのか、結果論的にしか評価出来ないことである。平家は源頼朝を殺さなかったが故に滅びたが、もし頼朝を殺して平家が生き残っていれば、後世の人からはやり過ぎであったと言われるのではないか。つまり、行為している最中には恐らく善悪を把握することなど出来ないだろうと。だがしかし、自衛に全くの歯止めが無いのは不合理であるので、心理的な壁として機能するよう、「悪の自衛行為」の存在は心に留めておいて欲しいのである。

人間の自衛感情の強さを実感した理由を以下に示す

関東大震災での朝鮮人虐殺の背景要因として、「朝鮮人を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということがあると中学の国語では習ったが、福島県への風評被害は「福島県民を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということはないのだから、要因としてあまり本質ではないと思われる。自衛だから仕方ないんだ」「自分の身を守れるならなんだってやる」という自衛肯定精神の方が本質であろう。

2015年8月8日土曜日

妹様防衛軍

コミケに出すような品質のバージョンを作りました。
ダウンロードは(https://db.tt/hRq8yZ0t)から出来ます。
遊ぶにはXNAのランタイムのインストールが必要です。



以下ReadMeファイルの中身

炎の魔剣で群がる吸血鬼どもを殲滅せよ
最強の吸血鬼ハンターとして、全てを狩るのだ


ルール

 矢印キーで移動
 Zキーでレーヴァテインによる攻撃。どんな奴だろうが耐えられはしない。黒焦げだ
 だが凄まじい反動で、放射中は動きは取れない。油断しないようにな
 レーヴァテインは大技なんでな、そう連発は出来ない。妹様の紋章で現在の余力を伺うことだ
 ENTERキーは時空の魔術。全てはゼロに戻る
 ESCキーは終焉の魔術。世界を終わらせる

 吸血鬼は直接その手で切り裂いて攻撃してくる、触れると大ダメージだ
 しかし奴らも生物体だ、幼体である蝙蝠形態では攻撃力を持たない
 だがその代わり蝙蝠形態は空を飛ぶ。迂闊に振る舞うと包囲されるぜ
 素早い動きに翻弄されず、寧ろこちらから誘導してやれ
 時間と共に奴らは進化する、せいぜい気を付けるんだな
 どうやら奴らは巣をオレンジの魔力でコーティングしているらしい。悪いがどんな刃も通りそうにないな

 攻撃を食らわず、如何にスタイリッシュに戦ったのか評価がスコアとして表示される、高みを目指しな


作者 世外奇人495
作曲者 Nego-tiator
原曲作曲者 ZUN
効果音はザ・マッチメイカァズ(http://osabisi.sakura.ne.jp/m2/)よりお借りしました


幸運を祈るぜ

2015年8月4日火曜日

The Value of Econophysics

This text is written for Marginalia, a magazine published by university students.

“What econophysics means?” I have to answer this question before explaining the value of econophysics because you can’t understand the value of anything if you don’t know it. Evonophysics is a relatively new domain and its researchers come from many different fields, such as physics, economics, engineering, mathematics, information and so on, therefore the definition of it is not explicit. So I propose the objectives of econophysics and define econophysics as a science aiming it. There are, for examples, (1) to find statistical features called stylized facts that come from big data that you couldn’t have got before (big means high frequency or minute detailed, such as 1 nanosecond financial market trading data, all companies transactions relationship, and so on), (2) to describe the mechanism emerging stylized fact by using simple microscopic or mesoscopic model like agent based model (ABM) and (3) to extend the realm of physics to be able to discuss the systems composed of not only particles that always behave same if the condition is the same but also agents that behave differently even if the condition is the same because of agents’ learning, adopting and evolution. 
 The biggest defect of economics is relying too much on mathematics. It means that every economical phenomena should be described by mathematics makes economics unrealistic. Mathematics only deal with perfect deterministic situations or perfect random situations. If you use mathematics in the mixture situations of deterministic and random, you can get only very abstract or trivial conclusions (such as bubbles must crash eventually) and cannot discuss real-worlds problems. To avoid this, economist have made “good-looks” assumptions like people behave in order to maximize his/her utility with perfect rationality and solve economic problems with such assumptions. One of the typical cases of this is efficient market theory (EMH). It says that price movements obey independent Gaussian distribution because people trade stocks based on its theoretical price (fundamental price) determined by the external news such as company’s achievement and external news will come unexpectedly because expected news is taken into account immediately and loses its value. So this statement means that everybody behave rationally and nobody knows the future. It sounds good. However, it cannot explain fat tail, one of the stylized facts that means large fluctuations obey power law distribution and thus occur more frequently than Gaussian. This typical examples are large crashes, such as Wall Street Crash (1929), Black Monday (1987), Lehman Shock (2008) and so on. Gaussian distribution says large crashes never happen, but in reality, it is not the case. In conclusion, what I want to say in this paragraph is that mathematics is useful, but sometimes you idealize problem too much to contain important features in order to solve it mathematically.
 So what we should do solve this problem? Econophysicists uses mainly ideas come from non-equilibrium statistical mechanics, complex systems theory, synergetics. The key is in the mesoscopic level connecting micro and macro because there are no other economics domain dealing with mesoscopic. It is true that one of the EMH defects, perfect rationality is also criticized by behavioral economics that assumes people have bounded rationality, but it is only the microscopic level and not suitable to discuss macroscopic economic phenomena. Then, what is the best way to tackle mesoscopic? I think it is ABM. ABM can realize mesoscopic mechanics by emergence and downward causation. Emergence means interactions among microscopic agents make macroscopic orders or structures. Downward causation is each agent who often has bounded rationality learn from macroscopic environment that are formed by emergence and change the way how to behave. This micro-macro loop is essential because it can generate stable and non-equilibrium states that are often seen in the real world, but traditional economics, such as evolutionary game theory cannot reproduce. Roughly speaking, an equilibrium state is like a ball in a valley. This is stable because if a ball moves, immediately returns the center of a valley. So its state is frozen. In contrast, stable non-equilibrium state is a sand pile. You drop sands, a sand pile emerges and gains its height. Then, the height of a sand pile will go to infinity? This answer is clearly no. Avalanches sometimes occur and the height goes down. So this system is stable not because its state is frozen but because it always moves. Economic phenomena are not frozen, but dynamical so that you can look them as stable non-equilibrium than equilibrium and this is explained by econophysics.
 In conclusion, the value of econophysics is to capture economic phenomena without failing there non-equilibrium features. And what’s more, I expect the development of experimental econophysics established by Ji-Ping Huang. It has a great potential to combine econophysics and laboratory experiments. In Japan, Yu Chen, an associate professor of The University of Tokyo studies it.

2015年8月2日日曜日

見えない因果関係と不都合な人間

  社会や政治経済を語ることは、それが一国民、有権者の立場であれ、社会現象を研究する研究者の立場であれ、昨今極めて困難である。その理由は根本的には間違った形での自然科学の発想の流用であり、具体的には見えない因果関係の無視、結論に合わせて人間の性質を都合よく構成することである。これらによって、何らかのイデオロギーに基づいた任意の結論を導くロジックが、その内容の如何に関わらず、学問的権威を伴って生産され続けている。これは学問の自壊であるだけでなく、特定の知識や論理を持つ人の発言力を不当に高め、かつ特段の責任を要求しないものであるから、民主主義の存続に関わるであろう。本論説では、その現状分析と、不完全ながらも解決策の提案を行いたい。
 自然科学においては、ある変数の影響が何に対して作用するのか明確に分離する為に、観察や実験においてはある一つの条件のみを変え、その他の要素は全て同じになるように設定した系同士を比較する。これ自体は極めて全うであり、非難されることではない。この手法の開発により、自然科学は発達し、今日の文明社会を築き上げたのは疑いようのない事実である。しかしながら、社会現象においては――例えばマンション自治会に関する法律だとか、ごく小さいものの変更を除いて――たった一つの条件だけが変わる、即ち、他の要素は変化しないのだということを要求することは、極めて強い要請である。人間は複雑な思考過程を持ち、加えて他の人間や周囲の環境に対して学習し、変化していくのであるから、一つの条件を変更して他の条件が同じということはまずあり得ない。であるにも関わらず、多くの人は文化や社会制度の変化を語るとき、「ああすればこうなるはずだ、だからこの変化は良い」といった簡単なロジックを使う。無意識のうちに、隠れた変数も同時に変化することを見落としている。尤も、人間の認知は有限であるから、全ての要素の変化を追うことは出来ないし、それ以前にそれら要素を不足なくピックアップすることは不可能である。加えて、隠れた変化を無限に言い続ければ単なる妄想であり、そのようなありもしないことを論じることには一切価値が無いであろう。しかしながら、隠れたものがあるということを忘れ――ないし、不明確なものは学問的に不純であると口実を作り――自分が導きたい結論を導く為に都合の悪い変化を意図的に見落とすのは不誠実である。特に、学問研究であり、少しでも政策に影響を与えるものであるなら、民主主義社会と有権者に対する背信であろう。国民が一票を投じる単なる有権者以上の政治権力を学者に対して認めるのは、望む結果をもたらすであろう方策を自分以上に知っていると信じているからである。学者が嘘を吐く、ましてや学者個人の要望を国民のそれより優先して叶える為に偽るということは想定していない。従って、学者は自分の力の及ぶ範囲で誠実でなければならない。閑話休題。では、隠れた因果関係を無視していると思われる例を一つ挙げよう。尤も、「隠れた因果関係を無視している」というのも、私の主観から見てのことであり、それをどう実証し、定量的に評価するか良い指標は無いのであるが。女性の社会進出に関して、あるデータがある。曰く、都道府県毎に女性の働いている割合と出生率の値を取ると、そこには正の相関があるという。そして世の中には、このデータを以て「女性の社会進出は出生率を高める。女性の労働促進は、少子化や子育てにマイナスなのではなく、プラスの影響をもたらすのだ」と主張する人がいる。私はこの主張にリアリティを感じることが出来ない。単純に、私個人の経験として、親が忙しくなればなる程あまり構ってもらえなかった気がするし、私もレポートなり何なりやるべき仕事が多くなる程ペットの世話が疎かになっている。では仮に女性の社会進出が出生率を高めないとして、この統計データはどう説明、解釈されるべきなのか。一つには、働いている割合と出生率が共に高いのは都市ではなく地方であり、地方においては大家族で祖父母との同居率が高く、祖父母に子供を預けて女性が働くことが出来るという理屈がある。この理屈が説明する世界観において、そういう女性が就いている仕事は、所謂女性の社会進出を推進したい人の想定する典型的なペルソナ、キャリアウーマンとして男性に劣らずオフィスワークを行うような、これから増えるべきだと彼らが思っている人間像とは程遠い。であるにも関わらず、彼らはバリバリのキャリアウーマンを増やすという目的の為に労働率と出生率のデータを無邪気に使うから、そのような統計データを生成したメカニズムが田舎の特徴にあると考える私のような人間は、何か隠れたものを見落としているのではないかと不信を覚える。ここまで考えてみると、この不信感は根本的に、何故そうなるのかというシナリオに欠けていることに根本的には由来するのではないかと思われてくる。この例で言えば、田舎世界観では祖父母同居の大家族と細々した内職、ないしパートタイムジョブによって統一的に説明されているのに対し、女性の社会進出が兎に角出生率を上げるのだという主張には、結論を導き得るストーリーが無い。これが、「隠れた因果関係を無視している」ということである。では、自分がものを考える時にこれを減らし、出来る限り誠実であるにはどうすれば良いのか。それは、統計データを見た時に、すぐにそれを解釈せずに、その統計的性質を再現出来る数理、ないしエージェントベースモデルを考案することであると今の私は結論付ける。当然、そうしても不完全であることには違いないのであるが、数理モデルないしエージェントベースモデルを考えるということは、その世界観の下で人間がどのように考え、どのような環境が所与のものとして与えられ、どのようなコミュニケーションが為されているのか一つの体系立った認識を作るということであるから、自分がどのようにその認識に至ったのか他の人から理解し易いし、この仮説が正しいかどうか、他の説明より妥当なのかどうかを考える際に何を調査すれば良いのかガイドラインを与えてくれる。現状、これ以上は望むことは出来ないであろう。
さて、「見えない因果関係を無視すること」、即ち、一つのパラメータ、条件の変化が他の条件を変えてしまわないと無意識に思うことによる過ちは、一つの問題を考える時のみ表出するのではない。現実世界は様々な複数の選択肢の集まりであるから、それぞれの問題で最適の選択を行ったからといって、その結果として得られる社会の最終状態が、他の選択肢を選んだ場合に比べて必ず優れているという保証は無い。合成の誤謬である。であるから、政策を考える際にはその案自体の良し悪しだけでなく、他の政策との整合性も考えなければならない、即ち、全体を統括するその人なりの価値判断、倫理体系が必要であるのに、そのことを意識している人は驚く程少ない。例えば、私の周囲の学生に話を聞くと、大抵「政府の無駄な支出に反対の緊縮財政支持、教育には予算を使い大学は無償化すべき、大学院生の就職率が悪いから大学院重点化に反対」という立場ばかり返ってくる。しかし、これらは私から見れば、自明に相互矛盾し、彼らの中には価値観の体系が無い。先ず、政府支出(ここでは主に公共事業を想定する)を減らすとしよう。すると、ケインズ経済学の教えるところによれば、需要が減る訳であるからそれに応えようとする供給も減る、従って、労働者の給料ないし人数が削られ、労働者への分配が少なくなる。さて、ここで大学を無償化するとしよう。すると、大学生のうち貧困層出身の人が増えるであろう。それは、従来では大学に通えなかった層も大学に行こうと入試を受けるようになるからであり、彼らが他の社会階層と大きな差が無く競争をすれば、それ相応に受かることから容易に想像出来るであろう。また、大学生の総数も増える。それは、大学に通うことの費用が下がったのであるから、大学に通おうとする人の総数が増え、かつ定員割れの大学が多数存在することにより、大学という教育サービスの供給がそれに応えることが出来るからである。加えて、定員割れの大学が主に需要増に対して応える訳であるから、増えた大学生の多くは低レベルの大学生がその殆どとなるであろう。ではここで、政府支出削減とこの状況を組み合わせてみよう。これから稼がなければならない貧困層出身の大学生、低レベル故に就職が厳しい大学の学生は増加したが、就職先に関しては求人の数も質も減少している。結果として、就職出来ない大学生の総数を必然的に増加させる。その上、その中において貧困層出身者の割合は今の大学生に占めるそれの割合よりも大きいのだ。いくら大学が無償化しても、大学に通うことのコストはゼロではない。その間の生活費等諸々の費用の他に、大学に通っている間には本格的に働けない、つまり高卒で就職していれば稼げたであろうお金もコストとして存在している。これが機会費用である。さて、大学に行ったことにより却って生活が苦しくなった人の数が増えることを、果たして私の周囲の学生らは肯定するのだろうか。「社会においてお金を稼ぐという形では直接役には立たなくても、深く勉強をした人物が増えることは公共の利益になる」等の主張を、堂々と主張するであろうか。いや、出来まい。もしそれが可能であるのならば、何故大学院の定員を増やす大学院重点化に反対するのか。本気で学問が重要と思うのならば、仮令就職が無くとも大学院を肯定すべきであるが、彼らはそれを否定するのだ。であるならば、どうして良い就職先を得られない大学生を増加させる政策を支持出来ようか、いや出来まい。結論として、この例が示しているのは、公共事業削減、大学無償化等の個別では人気のある政策が、それらを同時に実施すると全体としては、却って一般に好ましくないと思われている結果を社会にもたらすということである。このようなコーディネートの問題を考えるには、自分にとってどういう社会が望ましいのか、統一的世界観を持つことが必要である。全体として何を実現したいのかを深く考えないから、個々のテーマに対して一見良さそうに見える選択肢を選ぶことしか出来ず、結局どうなるのか考えることが出来ないのだ。もっと悪いことに、彼らは社会を見るメンタルモデルが先述のように統一性を欠いた誤ったものであるから、自分の選択がもたらした悪い結果が何に由来するのか正しく把握することが出来ず、自分の選択肢がもっと強く徹底されれば望む結果に近付くのだと思い込み、失敗を修正することが出来ない。より一層失敗することに精を出すことになる。これを回避するには、折りに触れて自分の持っている道徳感覚や政治的主張等を振り返り、それらの間に矛盾は無いか検証し、もし無いようであればそれらの考えを統一的に説明出来る世界観とは何かを考え、もし矛盾があるのであれば、何故自分がある問題と別の問題で異なる態度を取りたがっているのか、自分個人の善悪の感覚に立ち戻って考えることが必要であろう。そういう倫理観は感覚的なところから湧き出しているのも事実であるが、感覚的なものに対しても論理的に整合性を追求していくことは必要である。自分の善に対して素直になってしまっては、善意の下に人を殺す浅間山荘やポルポトになりかねない。
ここまで、一つないし複数の問題に対して、一つの条件を変えたところで他の条件は変わらない、都合良い結果がきっと得られるだろうと思い込むことの危うさを述べてきた。次に、そのように都合良く考える場合に多々見られる、現実の人間に対する無感覚を述べようと思う。それは実際に行うであろう人間の思考や行動ではなく、自説を成り立たせる為にモデルにおける人間の思考や行動を都合良く決めてしまうことである。一つの条件を変えても他の条件は変わらないだろうと思うというのも、根本的には一つの条件を変えても人間の反応はその条件に関する事柄のみ変化し、その他のことに関しては変化以後も行動を変えないだろうという考えから生じている。しかし、実際の社会はそうではない。一つの条件の変化に応じて人の動きが変わり、それによって他の条件に影響が波及して変化し、玉突き的に変動が広がっていく。そのようなフィードバックで動くシステムとしての複雑系が、社会ダイナミクスの真の姿である。特に難しく、奥深いのは、人間は学習して変化していく生き物だということである。仮に最終的には同じ状態になろうとも、そこに至る過程が異なるのであれば、異なることを経験し学習してきているのであるから、人間は異なる反応を見せる。同じ刺激に対しては常に同じ反応を返す物理系との違いがそこにある。個人の自由を高めることが必ず全体の利益にもなるというネオリベラリズムの主張がしばしば経済学を利用し、それが数理的には正しいにも関わらず何故か現実では上手く機能しないのも、彼らが利用するところの「経済学」は、人間の意思決定を過度に理想化、抽象化した、完全合理性として考えているからである。つまり、自由化という好ましい結論を導き出す為に、完全合理性という非現実的な人間像が恣意的に構成されている。確かに、如何なる人間もモデルを構築する上で必ず恣意的な示したい目標があり、従って彼の生み出す人間像が現実のそれから乖離することは避けられない。とはいえ、自分が恣意的であり、決して中立ではないということには自覚的である必要がある。特に、数学で社会の挙動を描画しようとすると、どうしてもモデルを単純化せざるを得ず、「それっぽい」仮定を多々置きがちであるので、注意を要する。

最後に、軽くではあるが、このように社会を考える者、特に学者が社会に対してどう向き合うべきなのか、現段階の荒削りな私案を書こうと思う。社会科学を研究している者の多くは、単なる知的好奇心や研究能力、社会科学の知見だけでなく、現在の社会に対して何らかの疑問、或いは「こうすればもっと良くなるんじゃないか」という理想を、意識せずとも少なからず持っていると私は思っている。即ち、研究者は潜在的には社会改善の意志と能力の双方を持った層であると言える。であるから、その知識を社会に対して還元することは必要であろう。公衆は社会の望ましい在り方について議論することは出来ても、その実現方法に関しては知ることが出来ないであろうから、これは一般の国民に対しても望ましいものであると思われる。しかし、ある種の社会運動に見られるような現状の、学者個人が勝手に政治に対して声を挙げるのは望ましくなく、寧ろ有害である。というのも、本人が意識せざるか否かを問わず、「学者」という肩書そのものが社会に対して強く影響する為、一個人としての発言をしただけのつもりであっても、そうは認められない、特にその学者と意見を異にする人は納得出来ないだろうからである。一個人の発言、投票というのが民主主義社会における一個人としての責任の及ぶ範囲であるが、学者が自分を一個人であると思って意思表明をすると、実際には一個人以上の影響力を行使しているにも関わらず、彼本人の認識では一個人として動いただけだと思っているから、それ以上の責任を引き受けようとしない。これは丁度、天皇が政治や社会に対する意見を言わないのと同様である。影響力の大きな個人は、最早個人として活動を許可されるべきではなく、ある程度公的な形で人より多くの責任を受け入れることを保証し、その上で大きな影響力を行使すべきである。原子力問題があれ程荒れるのも、根本的には「専門家は普段は意思決定において一般人よりも大きな影響力を持っているのに、原子力が大きな社会問題になった時にどのように責任を引き受けるのか、意思決定において公衆とどの程度に権限を分配するべきなのか」が問われているからなのであろうと思われる。工学者の立場からすれば、「政策は民主主義で決めるべきであるし、意思決定の責任問題に巻き込まれれば私生活や研究にも差障りが出るし、我々はリスクとリターンを提示するだけだ。あくまで意思決定をするのは社会である」のだろうと思うが、公衆が望む豊かな生活を叶える上で、必然的に社会のエスタブリッシュメントは原子力を導入せざるを得ず、公衆は意思決定をしたのだという意識が無い。そのエスタブリッシュメントに情報提供し、意見交換をした段階で公衆からは政策に関わったと見做される。公衆全てが賢くなり、「自分の選択で受け入れた」ということを自覚するのが困難である以上、専門家は専門家自身が意思決定に関わらざるを得ないことを自覚し、権限と責任を公衆に対してある程度可視化することが必要なのかもしれない。私は原子力に関わっている人が事故を受けて今後どうするか、安全性や利便性の向上に真摯に取り組んでいることを知っているが、それは一部の人にしか知られていないように感じられる。社会科学者が社会について発言する時も、どういう影響をどの程度与えるから自分はこれだけの責任を負いますよということを、どう分配すれば公衆が納得し、社会的に受容出来るか議論が必要であろう。しかし公衆、一般の有権者の側にも、意思決定の責任意識が必要だと私は思う。少なくとも大学生以上の知的階層には必須である。即ち、社会に何らかの要求を持つ時に、その要求されるものを維持する為に何らかのコストを支払う必要があり、一見突然降って湧いたように見えるリスクやコストも、実は自分の意思決定に伴う必然だったと受け入れる覚悟である。例として原子力を挙げると、もしそれをすぐさま無くそうとすれば火力の発電量を増やす為に大量に化石燃料を輸入し、かつ火力発電所のメンテナンスを減らすか、ソーラーや風力の為に多くの森林を切り払って土地を作り、かつそれらの廃棄の為の工場設備を作るか、地熱の為に地下重金属のリスクを受け入れるか、また発電量の減少に伴って日本の産業が衰退し、労働環境と生活水準の低下を受け入れるか、またはこれらの混合を呑まなければならない。また、原子力産業の衰退に伴って、将来の高速増殖炉、核融合炉等の実現も恐らく諦めることになる。その場合、他国がこれらを商用化した後に技術やら特許やらで色々派生する影響もあるだろう。これらのカウンターリスクを負担する意志と、その試算が無ければ、仮令原子力それ自体に関してどう思っていようとも、有権者として責任を負わなければならない。望む結果を維持する為には、何らかのコストが要る。民主主義国家における公共の意識とは、このように政治的意思決定について責任を負う覚悟に他ならない。民主主義国家の維持存続には、このような有権者の公共性に関する教育が必要なのかもしれない。

2015年7月12日日曜日

SSC輪読会【3】

今日中にまとめないと書き忘れるのが自明なので書く。

①創発や自己組織化臨界現象は有名だが、HOTは有名でない
 「冪分布=自己組織化臨界=単純な個々の構成要素の相互作用」という短絡的発想は社会シミュレーション系の人にも多くいるのだということが判明。HOT(highly optimized tolerance、高度に最適化された耐性)という全く異なるメカニズムも冪分布を作ることには注意を払っておきたい。臨界が部分の詳細に依存せず、単純な内部構造、中央コントロールなしの創発、フラクタルと親和的なのに対して、耐性は部分の詳細に依存し、複雑な内部構造、システム全体での外乱最小化に親和的である。人間の体温や機械の安全性等、複雑な内部構造から単純な出力を得るというイメージ。

②学問の細分化が進み、「同じ内容」が異なる学問名として別々に研究されている
 社会認知科学という分野では、「物を持つことで、人間の認知は純粋な彼本人の身体にとどまらなくなる」という発想をするらしい。分散認知という概念でも、「Aさんと話していた、Bという環境に置かれていたからこそ思い出せる、考えることができるということがある。これは、認知が環境中に分散していると考えることができる」という発想をする。社会認知科学は恐らく社会系、分散認知は工学系だと思うが、両者はほぼ同一ではなかろうか。このような細分化が進むと、先行研究を適切に調べることができなくなり、各所で「車輪の再発明」が行われるのではないか。

③人間関係はネットワークでは表し切れない
 AさんBさんCさん全員が集まって初めて成立するコミュニケーションは、A-B、B-C、C-Aの3つのコミュニケーションをバラバラに行っていても成立しない。例えば、一対一の勉強会を複数回行っても、複数人の勉強会一回の内容を包含するかは疑問である。これに関しては、工学系だけでなく社会学系にも解決を考えている人がいるようである。

④チューリングテストの判定者が人間だけで良いのか
 もし「人間には分からないが、機械や宇宙人にはハッキリと分かるような人間と機械の違い」というものが存在するのなら、人間と機械の類似性の判定者が人間しかいない現行のチューリングテストは何なのか。「人間かどうかの判定には、同族である人間だけが判断しても構わない」という発想だと、犬が鏡に移った自分を本物の犬だと思って吠えかかるとき、鏡はチューリングテスト合格ということになる。

⑤ODDプロトコル
 便利。ただ、必要な要素を個別に挙げているが、それらの関係性や時系列が分かりにくい。ネットワークで言えば、ノードだけあってリンクがないイメージ。しかし、必要な要素の洗い出しには便利。コミュニケーションの手段。

2015年6月20日土曜日

無知の越境

 「現状の言論の自由は、人類が延々と蓄積、発展させてきた学問知に対する酷い侮蔑の上に成り立っている」という認識が必要である。というのも、長年の学術研究によって自明に否定された主張が、一般市民によって何度でも蒸し返され、そのナンセンスな主張も一つの対等な意見として扱われるからである。「賛成意見も反対意見も載せる、両論併記の姿勢が公平でかつ重要」というナイーブな価値観が、これに拍車を掛ける。そして人間の積み重ねてきた知を毀損しているという事実に、主張している人自身は気付かないのだ。これは学問の細分化と専門主義により、そもそもそのような問題を遥か以前から考えてきた歴史を知らないからである。この問題を放置し続ければ、一般人の望む政策が実現不可能、ないし相互に矛盾するものばかりとなり、民主主義社会は崩壊するより他あるまい。これを防止する為には、学問世界の全体像を描け、求められる問題に応じて何を学ぶべきか過不足なく答えられる教養人が、一定割合以上社会に必要である。その教養人の育成が可能な組織は、大学以外にはない。しかし現状の大学のカリキュラムは研究の後継者候補を作ることを目的に組まれている。一つの専門分野にのみ博識な野蛮人を作るばかりである。また所謂教養過程の教育も、一見多彩な授業科目を用意しているように見えて実際にはそのような狭いタコツボの入り口を複数提示するだけなのだから、学問世界の全体像は分からず、教養人の育成には繋がっていないことは明らかである。大学は、人類社会の存続と維持、発展の為、教養教育の在り方を真剣に希求しなければならない。そしていみじくも大学で学んだ者は、周囲への啓蒙を怠ってはならない。間違ってもある問題について、それを扱う分野を学ばずに語る“無知の越境”をしてはならない。


 偽医療や根拠なき民間療法、オカルトじみた健康食品の台頭により医学の価値は何なのか突き上げを行わんとする人々や、長年インフラを支えてきたこと、また各種放射線の応用技術は滅菌や材料加工、化学反応に使われてきた恩恵を忘れ、かつ被曝量やその影響を過大視し起こりえない事象を主張する人々を見て、このようなことは今後更に他の分野にも拡大し政治を乱していくことを危惧してこの文章を著した。「民衆による学問の軽視と危機などあり得ない」と言う人もいるかもしれないが、既に起こっている現実がある。日本の高速増殖炉が止められているのがその一つである。学問にとって最大の抑圧者は、最早政府ではなく一般人と政治的扇動者の暴走にあるというのが私の認識である。これらを放置すれば「天然塩は健康に良いけれど、機械で加工されたものは危険だ」とか「白い食べ物は兎に角身体に悪い」だとか、誤った信念が社会を支配することになるだろう。そのとき、当該の分野、例えば医学などは死ぬ。

2015年6月6日土曜日

もっといいPVを作りました。

 最近作ったゲームのもっといいプレイムービーです。普通にプレイしているのと、敵の動きの性質を見せる為にあまり攻撃をしなかったのと。



2015年6月5日金曜日

ゲーム作りました(仮題:妹防衛軍)

 久々にゲームを作りました。以前作ったDBM(dielectric breakdown model)の雷が実際に映像作品で使えるかどうかテストするのが目的です。ゲームの内容は、巣から湧き出してくる敵を雷で焼いて倒すだけです。プレイムービーはこちら。


 Windowsならば遊べます。ダウンロードは(https://dl.dropboxusercontent.com/u/96927295/%E5%A6%B9%E6%A7%98%E9%98%B2%E8%A1%9B%E8%BB%8D.zip)で。但し、XNAのランタイムが必要です。XNAのランタイムのインストーラは(https://www.microsoft.com/en-us/download/details.aspx?id=20914)にあります。
 Zキーで雷、上下左右の矢印キーで移動です。因みに、敵の移動はPSO(particle swarm optimization)にランダムな揺らぎを加えたものです。

2015年5月27日水曜日

他人の権利を侵害しなければそれで良いのか

 現代日本では「他人の権利を侵害しないのであれば、何をするのも自由だ」という命題は広く支持されているように見える。しかし、システム論的に考えると、この考えには重大な欠点が存在する。それは、人間社会は多数の人間が常時意思決定を行う複雑システムであるため、ある個人の選択が直接的には他人の選択に理論上は影響を及ぼさないとしても、間接的、実質的には選択を制限することが多々あるということである。このことを認識していないと「他人の権利を認めるだけならばそれに自分に対する害はないので、とにかく自由を増やすべきだ」となるが、実際には個人のレベルで自由を増やしたからといって全体として自由が増えるとは限らない。ミクロでの推論はマクロには拡張できないのだ。これは経済学では合成の誤謬として意識されているが、他の社会科学ではあまり認識されていないように思われるし、一般人は言うまでもない。ここでは、システム的な作用によって間接的に自由が制限される分かり易い実例を挙げ、体感的に納得して頂きたい。しかし現実にはもっと複雑な因果・相関関係が多く、本当はもっと事例を挙げる筈が言語で上手く説明できなかった。

事例①大学の出席管理
 ある大学のS学科では成績評価の一環として出席を取っている。しかし、多くの教員は学生は不真面目であり、遅刻したとしても欠席するよりかはマシだと考えるのか、遅刻した人にも出席簿にサインを許す。すると、実際に学生は怠惰なので単位さえ取れればいいと思い、その環境に適応して常に遅刻するようになる。すると、ある教員が講義の性質上(最初を聞かないと最後まで分からない、演習形式etc)遅刻に厳しく出席を取ろうと思っても、殆どの学生が遅刻するので、結局形骸化せざるを得ない。この事例を先述のシステム論から説明すると「常識的な考えからは、それぞれの教員が教育内容を自由に決める度合を最大化するためには、それぞれの講義に関して相互不干渉が最良になる筈である。しかし実際に相互不干渉を実施すると、理論上は自由を最大化できる筈が実際には出席を厳しく取りたい教員の、出席を厳しく取る自由を制限してしまっている。」ということになろう。理論上は「遅刻する学生が悪い」のだが、学生の性質を簡単に変えることができるだろうか、いやできまい。そもそも学生の遅刻という現象そのものが、遅刻に甘くかつ出席が成績評価で重いという学科のシステムに適応した結果である。学科が自分から作りだしたものを自分で非難するというのは矛盾である。余談だが、私が「文科省の大学への干渉には何でもかんでも反対」という人を批判するのは、これと類似のメカニズムにより、大学の自主性を形式的に高めることが実質的な大学の自由を損なう可能性もあると考え、無干渉状態のリスクを訴えたいのである。



2015年5月22日金曜日

言葉や数式では記述し切れない知識の存在

 ある講義に関して、私の一つ上の代の計数の友人が「これはアジテーションだ。最初には数学で問題が記述できないと主張しておきながら、結局最後は力学系カオスになっている。」と評していたが、その講義を実際に受けて私が思ったことはその逆であった。その講義は明らかにアジテーションではなく実質がある。では何故彼は単なるアジテーションだと捉えたのか。言語や数式で明示的に書かれた知識しか知識、学問として認めなかったからである。これは数学屋の病理ではないかと私は思ったりした。ここで、明示的に記述出来ない知識とはどういうものかを議論し、それを認めることの価値を論じたい。
 記述できない知識が重要、というよりも本質である学問領域の一つはマネジメントやシステム工学であろう。マネジメントの価値を分かっている人の皮膚感覚をよく表しているネットの書き込みの一つが[1]“スタートアップに居た時も、気持ち的に社員だれかの名前を忘れ出す規模になると小規模の会社の団結力が突如弱まり出す感じだった。そこからはHRポリシー、ビジネスプラン、ストラテジーなどプロセスを積極的に持ち込まないと空中分解する。あの大きな会社への「変化」の時が大事だと思った。”であろう。別に「X人になったらメンバーの意欲がY%落ちる」みたいに定式化されている訳ではないが、確かにマネジメントを学んだ人間には「その知識は有用だ」ということは分かるのである。かなり感覚の話なので言葉で説明は出来ないのだが、あるのである。取り敢えずそれは疑問に思ったとしても一旦鵜呑みにしてもらって、では世間で流通しているマネジメントの教科書や論文とは一体何なのか、言葉で書かれているじゃないかという問題を考えよう。私が思うに、そういった文章になったマネジメントというのは、感覚というのを何とかして言葉、即ち他の人にも理解可能な形式に情報の欠落、変質が少なくなるように変換しよう、最初は何だかよく分からないけれどもその手法を真似して、行動しているうちに感覚を自覚出来るようになる手法を作ってみよう、そういう必死の、漸近的な試みなのである。従って例えば、ブレインストーミングやマインドマップは有名であるが、それはその手法そのものが偉く、その手順通りに行えば成果やアイデアが出る、イノベーションだという代物ではないのである。あくまでブレインストーミングやマインドマップを行っていくその過程の中で、自分が普段どのように何を考えているのかを自覚し、その感覚を表に引き出すだけなのである。当然、一つの手法で全ての感覚を引き出せる筈もないから、多種多様な発想技法が日々考案されている。これに対して、「そんなものを使わなくてもアイデアは出せる」という反論もあり得るだろうが、それは実績を見給え。製造業ではこのような手法の活用により、市場のニーズと自社の技術、収益性を両立した製品のアイデアが、手法を使わなかった場合よりも豊かに生まれている。日本の自動車産業が依然強いのに対し、家電はアジアに追い抜かれているのも、こういった手法の一つであるQFD(quality function deployment、品質機能展開)の活用の多寡が一因ではないのか。
 先述した「記述できない知識が存在し、しかも何故か有効である」という考えは、認知心理学の研究テーマにもなっており、裏付けられていると言えよう。詳細は後日EysenckとKeaneの"Cognitive Psychology"の当該部分を読み終わった後に加筆するが、ここでは取り敢えずドレファスの技能獲得の5段階を述べておこう。ビギナー、中級者、上級者、プロ、エキスパートと発展していくのであるが、エキスパートになると過去の経験から没合理的になるとされている。即ち、状況から最適な行動を導き出して取ることが出来るのだが、自分がどういうプロセスでその解を見出したのか自分でも分からない、上手く説明出来ないのである。上級者の段階では大量の個々のルールからパターンマッチングをしていたのが、プロになるとどこか変わってきて、エキスパートになると何だか分からないけれどもパターンにない状況でも最適解が出せてしまう。
 また、記述できない知識を本質としない学問であっても、学問を学ぶ過程で身に付く身体感覚というのはやはり存在し、それが専門による個人の根本的思考の差異になっている。明示的な知識の有無が違いを作っている訳ではない。皮肉なことだが、「全ての学問知識は言語か数式で明示的に記述される」という信念も、曖昧さを許さない数学を専門で学ぶ過程で身に付いたものなのだろう。異なる専門間で対話するときの困難はこれであるが、これを明らかにすることこそがその目的とも言えよう。何故ならば、学ぶ過程で得た身体感覚には、この上ない価値があるからである。その価値が認められている実例として、就職活動を挙げよう。就職活動をしている友人の発言に[2]“就活に侵されると、いかに学んだこと・やってきたことを抽象化して、身に着いた何かをアピールすることばっか考えるようになる”というのがあり、それがその一例なのではないかと。何はともあれ、言葉にならない知識が重要なのだというのは確かである。
 最後に、最初に挙げた講義について述べると、時間の不足もあってバラバラな要点の強調が多く、明示的な知識という観点では確かに矛盾のように見え、アジテーションという評価も分からなくはない。しかし、複雑系を分かっている人には言いたいことは分かるし、なかなかそれ以上の表現が難しいというのも事実。その先生のモットーである“大学の授業で大事なのは教科書を読んで分かるようなことは話さないことです。教科書を読んでもなかなか分からない本質的なことを話します。”というのを目指そうとするとああなるのは仕方ないのかなという印象である。

参考文献
[1]https://twitter.com/mozantotani/status/598507118409306114
[2]https://twitter.com/yamag23/status/600508843592790016

2015年5月18日月曜日

DBMによる落雷のシミュレーション(3)

動画(mp4)形式にすることが出来ました。
雷がゆっくり落ちていくバージョンと、一本一本の雷が落ち切った瞬間だけを切り取って集めた“電撃が太くなっていく”バージョンの2つです。
今後はこれを使って何か別のものを作ろうと思います。


2015年5月6日水曜日

無制限の自由は却って自由を奪う

 私の友人には数学科の人がいて、彼はとても頭がいいのだが、社会問題の話となると根本的に間違えることが多い。その一因に「より多くの自由を与えれば、与えられた主体はより自由、主体的に行動出来る」という思い込みがあるということが挙げられる。今回は、その考えが何故間違っているのかを、大学行政を例に述べる。
 彼の考えによれば「学問の自由、大学の独立性を確保するには、文科省等の政治からの干渉が少ない方がいい」ということであるが、私に言わせれば、過度の無干渉という意味での自由は市場の失敗により却って学問の自由を損なうことになる。理論的に述べるのは難しいが、実際の現象に整合的なストーリーを述べると、次のようになる。

①学生数の減少している(特に地方)大学は、学生を集めなければ経営が成り立たず、存続出来ない。
②そこで、知名度を上げる為に、元新聞記者やTVキャスター等の、研究能力の無い有名人を教授として迎える。
③(これに実際に効果があったかは兎も角)他の大学内部の人がこの策を見、学生獲得競争に負けないように導入する必要に迫られる。
④結局、学生数の減少している大学は(形式的にはこの策を採用するしないは自由の筈だが)実質的には採用せざるを得なくなり、結果、教授選択の自由という学問の自由の1種が失われる。
⑤更に言えば、そういうタレント教授も教授会等である程度の発言力を持つ筈なので、間接的に他の種類の学問の自由も損なわれる。

 これはタレント教授の採用に限らず、兎に角目新しい策を導入して何かをしようとする全ての現象に対して、程度の差はあれ成り立つ議論である。このような場合、文科省がタレント教授の採用に何らかの方法で制限を掛けた方が、最終的に確保される学問の自由の総量は多いであろう。加えて、議論の本筋から離れてミクロな問題を考えてみても、タレント教授の採用によって有望な若い研究者がアカデミックポストを奪われているかもしれない。自由によって自由が奪われているのは明らかである。
 結論として、より一般化すると、私の主張は「より多くの自由を与えると、自由を与えられ得る主体は(仮令それが大学であったとしても)全て社会に属するものであるから、必ず社会と市場の影響を受ける。従って、市場の失敗により、その自由は規制の無い状態に比べて逆に制限されることがあり得る。当然、過度の規制は自由を損なうが、適切な規制というものは存在し、それを探すべきである。」ということになる。これは様々な現象の説明になるだろう。

2015年4月29日水曜日

システム工学に関するメモ(講演資料作成にご協力お願いします)

某所でちょっとした講演をすることになっているのですが、アカデミックというか過去の発表例とはかなり異なった内容なので理解されるかどうかに心配があります。分かり易さや不足点、問題点等を指摘して頂き、それに合わせて本番での内容を改良したいです。出来れば感想等ください。以下講演内容の構想メモです。まだ途中ですけど。

講演概要
現在、同人ゲーム制作は(少なくとも当サークルでは)経験論的・場当たり的な手法に頼る部分が大きい。そのことがハードルとなりプログラミングやゲーム制作未経験者に対してゲーム制作の魅力を伝え、意欲を維持していく妨げになっている。そこで、何らかのモノやシステムを設計する際の考え方の基礎学問としてのシステム工学と、ゲームを遊ぶ、ないし制作する主体である人間の性質を扱う基礎学問としての認知科学を導入し、問題の解決を図る。具体的な手法はまだ開発できていないが、将来的には提案したい。

スライド案
・問題意識
ゲーム制作とかプログラミングって「投げっぱなし」が多くないですか
「好きでゲームを作る」だけで何でも上手く行くのなら、全〇連に参加する学生が減って衰退なんてことはそもそも無い訳ですし
問題解決の一般的フレームワークとして、システム工学とか使った方が良いんじゃないの
経験則や泥縄に頼っていることの問題点を、具体例とともに見てみましょう
①初心者問題
私の話です
「何をやればいい?」「好きなことをやればいい」
一見ごく真っ当なコミュニケーションにみえますよね?初心者には違うんです
「好きなこと」って何ぞや
遊んでいて楽しいゲームはあるけど、作る際に楽しいとは限らない
というか、プログラミングで何が出来るか知らないし
チューリング完全だから何でもできるとかいう意見はあり得ない
現実的にそこまでのスキルなんて修得不能だし
“自分に何が出来るか”なんて知らねえんだよ
ぶっちゃけ、苦労して作っても誰かに評価してもらえなきゃ空しいよね
「プログラミングそのものが楽しい」という一部の「異常者」以外は他人に喜んでもらえるものを作らないと、モチベーションが続かない
しかも、他人から評価された部分が自分の努力した部分に一致しないと、「分かってねーなコイツ」みたいな気分になってあまり モチベーションアップにならない
「好きなことをやってれば楽しい、長続きする」という考えは幻想
『プログラミングC#』
「必要な部分」だけ読めばいい、というアドバイス
しかし初心者は必要な部分がどこなのか誤認する。
例①何十万行ものcsvを読み込んで処理を行いたい
最初の私:ファイルの読み書きをするんだからファイルストリームの章だろう。文字列?stringとか興味無いわ
結論:ファイルストリームじゃなくて文字列の章を読め
例②dllファイルを作ってプログラミングを効率化したい
最初の私:アセンブリ?このハードウェア非依存の時代に、そんなの必要ねーよ
結論:アセンブリの章を読め
必要な部分とか、初心者には分からない
キーワード知らないし
結局初心者は何だかよく分からんうちに辞めていきます
②目標に対して効率的なゲーム制作

まあつまり、私がシステム工学と認知科学で解決したい問題、最大目標は「元からプログラミング好きの人以外にも、ゲーム制作なり何なりを楽しめるようにする」ことです
その中には、少ない労力で高い満足を得るゲーム制作の手法を含みます
これで解決できるとは限らないが、もし解決する方法があるのなら、他にはあり得ないとは確信している
・システム工学とは
システム……要素と要素間の関係を人間が認識して現れる、全体構造
「認識」であるから、内部構造や因果関係に恣意性が現れる
その違いをディスカッションすることで、お互いの現状認識や問題意識、目標についての認識の違いを把握できる
そういう違いを認識しないと、問題解決の議論において話がまとまらない、水掛け論なってしまう
工学……意思を実現する体系(工学部HP)
技術ありきではなく、自分が何をやりたいのか、目標が先にある
システム工学……因果関係のよく分からない問題をシステムと見做して整理し、意思を実行する為の学問
この場合には「何だかよく分からないがゲーム制作がイマイチ面白くない。どうすれば楽しくやれるの?」ということ
システム工学は個別の具体的な手法は割とどうでも良いんで、基本的なものの考え方が分かってくれればそれで
私はブレインストーミングで反対意見出したりするし(手法で実現したい目標をそっちの方が上手く達成できる場合)
手法の手順を厳密に守ることではなく、その手法をどういう思考の整理・発展に使いたいのか、目的を忘れないことが大事
盲目的に手順に従うだけだと「意識高い系」の出来上がり
個別の手法は参考文献などで自習してください
良い本が少ないので、選ぶのに苦労しました
要素に一度分解してから、もう一度全体を組み立てて因果関係を推測するのがキーポイント
個別だけ、全体だけでは表層的対応になり、上手く行かない
例:進捗が少ない→残業させれば解決、みたいな
・認知科学とは





2015年4月28日火曜日

科学は人間の主観から自由か

 結論から言えば、私が思うに、科学も人間の感情や主観から自由ではない。その理由を列挙すると、次のようになる。尚、ここでの議論は一部に社会科学を暗に想定したものも存在するが、科学一般に適合すると私は考えている。

①ある現象を再現するモデルは複数考案されるのが普通であり、そのうちの何れを選択するか、また自分ならどうモデル化するかに個人の主観が反映する。
②「人間の思考能力や行動基準を~であると仮定すると、経済現象に~という性質が現れる」という数学的、ないしアルゴリズム的に記述される“科学的事実”は人間の主観に対して独立だが、その仮定と帰結が現実社会に適合するかどうかはその時々の様々な経済的状況に依存し、“正しい理論”が何なのか決定することが出来ない。
③そもそも科学において何を研究したいのか、その方向性や問題意識が応用科学や工学等の現実世界と密接に関係しており、科学の進展方向は現実世界に非依存ではない。

以下、それぞれ説明する。

①について
 例えば流体の運動なら(何らかの極限を取れば何れもNavier-Stokes方程式と等価だと数学的には示されているが)フラクショナル・ステップ法やSPH法、MPS法に格子ボルツマン法等の様々な全く異なる表現で書き表すことが出来る。空間の不動な各点に速度や圧力等を成分とするベクトル場が広がっていると見ても良いし、そういう計算格子が拡散したり集まったり変形して、時に一滴の飛沫になる世界観も良い。果ては、規則的な世界に有限個の矢印があって、その方向に1単位時間に1マスしか進まない仮想的な、存在密度の流れでさえ構わない。これが社会・経済現象となると更に難しく、何らかの極限を取ってもモデルの意味が一致しないということも普通である。例えば金融市場のstylized factsを再現するモデルとしてGCMG(grand canonical minority game)やマスロフモデルがあるが、前者は状況に適応して知的に振る舞うエージェントの挙動をモデル化して金融市場の価格決定メカニズム(ザラバ、学術的には連続ダブルオークション)を無視しており、逆に後者はエージェントの知的挙動は全く考慮しない、単なるランダムとして扱い、市場の価格決定メカニズムのみをモデル化している。従って、どう考えても両者は同一のモデルとして考えることはあり得ない訳だが、どちらもstylized factsを再現することが出来る。

②について
 ①後半の金融市場の例で近いものを挙げたような気はするが、やはり別個の概念として存在すると思うので、典型的な例を挙げる。高校の政治経済の授業ではセイの法則とケインズの有効需要の法則を習う筈なのであるが、その矛盾を考えたことはあるだろうか。前者では供給は需要を創造する、即ち作れば作っただけ売れると主張するのに対して、後者では需要があって初めて供給がある、即ち作り過ぎれば売れ残ると主張している。この矛盾は、決して片方が間違っているという訳ではなく、仮定している前提状態が異なるのである。雑に説明すると、前者では価格は常に変動し、生産者は値引きをしてでも全ての商品を売ると考えるのに対し、後者では生産者は価格を下げず、そして売れ残りが発生すると考えている。これまた極めて雑な議論で申し訳ないが、前者が(新)古典派で、後者がケインズ派と呼ばれている。数学的にはどちらも正しいが、どちらが現在の社会状況に整合するのかはその時々で異なる。多分今の日本のような状況だとケインズ派の方が正しいんじゃないかと根拠は無いが個人的には感じている。

③について
 先ずは分かり易いであろう②の延長戦で話を進めると、ケインズが出てきたのは当時不況であり、従来から存在した古典派の理論では状況を説明出来ず、不況を脱することが出来ないという現実世界からの問題意識があった。科学が現実世界に影響されていることの証左である。これは経済学のような社会科学だけでなく、数学や物理学においても類似の例は多々ある。例えば数学の微積分学は(ライプニッツがどうだかは知らないが)ニュートンが力学の問題を記述する為に開発したものであるし、関数解析や作用素の概念は量子力学を正確に記述する為の表現として誕生した。微分幾何学はアインシュタインの相対性理論を書く為である。純粋な理論と思われている数学も、どの方向に進化していくか、その問題意識は強く現実世界にリンクしている部分もあると言って良いだろう。物理学においても同様で、空気動力学は航空機の飛行を研究する為に発展したものであるし、流体力学の境界層理論はコンピュータの無い時代に手計算で飛行機の翼の回りの流れを計算し、揚力から飛行能力を導出する為に使われるものだ。

 結局、私が言いたいのは、純粋な科学と雖も現実世界の問題から離れられず、科学のより良い発展には現実世界との向き合い方、問題意識の発見の仕方が重要なのではないかということに尽きる。

2015年4月20日月曜日

DBMによる落雷のシミュレーション(2)

雷を連続で落とし、後続のが先行のに影響を受ける“ダンシング”までシミュレーションしました。アニメやゲームに出てくる雷撃にかなり近いグラフィックになっています。但し、画像においては単純に画像を重ね描きしています。XNAで作成したので、動画を公開出来るかは定かでありません。取り敢えずこれで分かったことは“アニメやゲームの電撃は、一発に見えていても、物理的整合性から考えると、実は連射している”ことではないでしょうか。







2015年4月18日土曜日

物理学における経済物理の意義について

 今日、計数の友人と話した折、彼は「経済物理は今まで物理学で記述出来ると思われていなかった経済という現象が、物理で書けると分かったことに意義がある。それによって、多くの物理学者が参入した。」という趣旨のことを述べていたが、それは違うと私は考えている。その理由について、以下述べる。但し、私の言いたいことを述べる上で適切な用語が度々なかったので、不正確な言葉遣いが現れたり、同じ用語がその時々によって異なる意味に使われていることはご容赦頂きたい。また、書いている最中に文献を細かく確認しなかったので、事実関係に誤りがある可能性がある。
 まず、経済物理とは経済現象を(彼が思っているであろう)物理学で記述したものではない。確かに、冪乗則や自己相関関数、相転移等の物理由来の概念は使われているが、それだけではないし、その用法は他の物理学とは違う。寧ろ経済物理の物理学としての(社会科学、経済学の一部としての価値はまた別である)価値は、平衡がマクロな変数で大域的に決まるのではなくミクロな局所的変数で決まり、構成要素が学習をしない粒子ではなく学習・適応していくエージェントからなる系への物理学の拡張という点にある。
 例えば2次相転移に関して言えば、通常の物質系の物理学では秩序パラメータmの揺らぎが臨界点で発散する、臨界揺らぎという現象が見られる。即ち、雑に言えば、臨界点において系は不安定である。ところが経済物理においては、例えばMG(minority game)やMDRAG(market-directed resource allocation game)に見られるように、臨界点において揺らぎが最小化し、市場として安定するという性質を持つ系がある。この差異がどこから生じるのかと言うと、系の状態の決まり方の違いからである。物質系においては、系がどういうマクロ状態に最終的に落ち着くかは、マクロなパラメータである自由エネルギーの最小化で決まる。その最終状態、即ち自由エネルギー最小状態での秩序パラメータの値を知る為には、与えられた条件(例えば温度をTにする等)の下での自由エネルギーを、秩序パラメータmで展開し、自由エネルギーを最小にするmを求めればよい。そのような考えに基づいた計算を行えば、臨界揺らぎがあるということは理解出来る。このような議論は物質の種類等の系の性質に依存せず、この結果は極めて普遍的であるように見える。しかし、MGやMDRAGには成り立っていない。マクロなパラメータで議論出来るとするとこの結論は必ず導かれる筈であることから考えれば、MG等で成り立っていないことより、MGの状態がマクロなパラメータに支配されている訳でないことが分かる。実際、MGやMDRAGがどうなるかは個々のエージェントの戦略選択、意思決定に依存しており、大局的にではなく局所的な要因から決まっている。このような現象は物質系の物理学にはあまり見られない現象であり、これは物理学のアイデアを単に社会現象に応用した訳ではないことが分かるだろう。そうではなく、今までの物理にはなかった概念まで、物理学を拡張したのである。エージェントの学習・適応に関しても同様である。
 結論として、私の主張としては、経済物理は経済を物理学で記述したことに意義があるのではなく、経済現象を契機にして、物理学の概念を拡張したことに意義があるのである。

2015年4月14日火曜日

DBMによる落雷のシミュレーション

DBM(dielectric breakdown model)によって落雷を計算し、簡単に可視化しました。DBMのアルゴリズムは簡単には次のようになります。

Step0 空間を格子に分割し、地面を高電位、雷の発射点を低電位に設定します。これらは境界条件になります。
Step1 各点の電位をラプラス方程式(∇^2)V=0を解いて求めます。
Step2 雷の既に通った格子に接している格子から一つを、電位のη乗に関するルーレット選択で選び、その点に雷が進みます。その点の電位は0となり、以後境界条件として扱います。
Step3 雷が地面に到達すればそこで計算終了。そうでなければStep1に戻ります。

このシミュレーション結果の一例は以下のようになります。


次の改良として①可視化の美麗化②連続で雷を落とし、“ダンシング”を再現、の2つを考えています。

参考文献(出所となる雑誌がどこか忘れてしまったので、不完全)
T.Kim., M.C.Lin. : Physically Based Animation and Reffering of Lightning

2015年3月28日土曜日

自作数学問題

高校数学の範囲でエージェントベースシミュレーション(ABS)の解析解が出せるということに感動したので、その一つであるMDRAG(market-directed resource allocation game)の相転移の解析解の導出を、数学の問題形式にしてまとめてみました。本質的アイデアを損なわずに適度に近似して、複雑な現象の一端を簡単に理解出来るということは素晴らしいです。ABSを解析的に解くとはどういうことか、物理や工学での数学の実践的姿はどんなのか、大学の勉強はどんな感じなのか、そういうことに興味がある人に良いのかなあと思います。東大の後期試験に類似した形式なので、受験生にも良いかもしれません。
(別紙参照の筈の)MDRAGの詳しい説明はまだ書いてませんし、問題文も適切かは分かりませんので、訂正案があればどうぞ連絡を。MDRAGは後述の参考文献に詳しいです。

MDRAG(market-directed resource allocation game、別紙参照)とは、人間(エージェント)の選好の多様性の有無が市場が均衡に到達する為の必要条件であることを検証する為に作られたABM(agent-based model)である。これのシミュレーション結果を検証する為、MDRAGを簡略化したモデルを解析的に解く。その過程を表した以下の問に全て答えよ。

(1)ステップtRoom1が勝つ確率をα(t)とした時、その回での選好Lの戦略(戦略L)の得点変化f(L, t)の期待値を求めよ。但し、戦略Lを「確率L/PRoom11-L/PRoom2を選ぶ戦略」と見做してよい。尚、戦略は勝ったRoomを正しく予想した場合、1の得点が与えられるとする。

(2)ステップ1からTまでの得点変化の総和を取ることにより、ステップTでの戦略Lの得点F(L,T)を求めよ。

(3) Room1,2に配置される資源の量をそれぞれM1,M2(M1>M2、一定)とする。M1>M2よりα(t)>0.5と仮定する。その際、各エージェントは自分の持っている戦略のうち、どれを採用することになるか。Tは十分に大きいとして、F(L,T)Lで微分し、簡単に説明せよ。尚、F(L,T)は戦略Lの実績を表しており、これが最大の戦略をエージェントは選択し行動するものとする。

(4)あるエージェントが選好L’を選択する確率p(L’)を求めよ。但し、エージェントが持っている戦略の個数はSであり、各戦略の選好L0~Pの整数の中から等確率に与えられるとする。

(5)Room1を選択するエージェント数の平均R1を求めよ。但し、エージェントの総数はNである。

(6)効率的な配分はRoom1を選ぶエージェント数がN’=N*M1/(M1+M2)のときである。このとき、R1>N’であればこの配分は達成可能で、R1<N’であれば不可能である。その理由を説明せよ。その際、ここまでの計算で用いた仮定の一つを外すとよい。

(7)MDRAGでは効率的資源分配が可能なパラメータ範囲とそうでないものがあり、前者を均衡相、後者を不均衡相と呼ぼう。液体と気体のように、物理学ではこのような相の間の関係性に興味がある。ところで、このような相と相の境目となっている点を何と言うか、答えよ。

参考文献
Ji-Ping Huang: Experimental Econophysics. Springer, Berlin (2014)