2015年11月20日金曜日

理論と体系に関する典型的理系人の認識について

 典型的な理系人、特に数学や情報系に多いのだが、彼らは自分が理論を基礎から理解していることを誇り、その重要性を言う。曰く、実用目的の応用のみでは早晩行き詰る、そうなった時に問題を解決出来るのは基礎に戻って考えることの出来る我々のみだ、と。そして同時に、応用でないという理由からか、哲学等の人文系教養を尊重していると主張する者が少なくない。しかし彼らに、人文系教養のロジックで書かれた文章を、哲学なり何なりの肩書を付けずに渡してみると、それをポエムとしか認識出来ず、理解を拒む。この現象に関して、以前私はその理由を、基礎学問に権威を感じているからだろうと考えたが、その発想に対して今回は修正を加える。彼らの認識の説明には、彼らがある学問が基礎であること自体に権威を感じていること以上に、体系を成していない理論の集まりを理論として認識出来ないことが重要な要因である。この修正により、何故基礎理論原理主義者は数学や情報(、或いは物理)の分野から多く出現するかまで説明可能となる。
 数学の理論は、その多くが公理とそこからの演繹という形で作られる。情報に関してはよく知らないが、数学に近い学問であるらしいから、恐らく似た構造であろうし、そうでなくとも学ぶ者のメンタリティは近いと思われるので、以下の議論において数学系と全く同様に扱っても間違いではないと想定する。そのような学問においては、全ての主張がそれ以前の主張から演繹されたものであり、どんどん源流を辿っていくと最終的には誰かが恣意的に考えた公理(今考えている学問世界の基本法則、ないしルールのようなもの)に到達する。また自分が新しく主張を作る際にも、必ずそれ以前のものからの演繹という形を取る。従って、この学問世界において、どの主張がどの主張を導いたのかを矢印を描いて整理していくと(一つの主張をノード、主張と主張の導出関係を有向リンクで表現する)、幾つかの公理から生えてくる、枝分かれする樹のような構造になる筈である(しかしグラフ理論の言う、厳密な意味でのtreeではない。菱形のような構造もここにはある筈だからだ)。彼らは、そういう構造で表現される体系に含まれる主張、及びその集まりのみを理論として認識するし、何らかの主張を見た時、その主張が自分の知っている何れかの「樹」のどこかに組み込むことが出来るかどうかで、その主張が根拠のある理論なのか、それとも意味のないポエムなのかを判断している。そうであるから、人文系教養に基づいた文章を読んだ時、例えば「これはカントの本です」とか言われれば「ああ何々哲学で、何々を継承しているのだろう」ということが、具体的な「何々」の内容が分からなくても、「カント」という名前から「何々」が存在すること自体は感じ取り、まともな学問であると認識するのだろう。但しあくまで主張の内容から構造の存在を感知した訳ではないから、人文系教養を含んだ文章を「カント」等の説明無しに渡すと構造を認知出来ず、彼らはそれをポエムであると認識する。これによって、表面上は「典型的理系人は、人文系教養に則った文章を、哲学なり何なりという肩書からのみ判断する」という現象が再現される。ここから更に推論を続けると、だからこそポストモダンというか何というか(ポストモダンという語を使ったのは、新興の思想哲学分野にどういうものがあるのか私が知らないからそれっぽいものを持ってきただけであり、特に意味はない)、そういう新興の分野に対しては彼らは恐らく懐疑的なのではないかと予想される。何故ならば、以前の理論から導出されたものではなく、様々な雑多な主張がバラバラに生まれており、体系ではないからだ。余談だが、この予想の正否によって、私の主張は検証出来るのではないかと思っている。
 さて、上述のような理系人が、数学や情報以外からはそれほど産出されない理由を述べよう。それはすごく単純な話で、工学や医学等は数学や情報ほどには体系立っていないからだ。以前から確立されている主張から導出が為されるのを待たず、必要に応じて新しい主張が継ぎ足されていくのであるから、樹木のような構造がある筈もない。実際、典型的理系人はしばしば工学を見下しており、私の観察と主張はその内部において整合性は保たれている。工学や医学では理論を現実に合わせて曲げていくことを是とするから、数学や情報系のような、肩書のみから人文系教養に基づいた文章を判断することは相対的に少ないだろう。尤も、工学系には数学や情報に憧憬を抱く者が少なくないから、医学系よりは典型的理系人になってしまう確率は高い。物理系は工学系以上に数学に近いから、典型的理系人になる確率は工学系よりも高いのだが、物理学には例えば乱流のような体系立ってない分野もあり、そういう分野の人は典型的理系人になる確率は低いだろうと予想する。
 結論としては、典型的理系人は体系に組み込まれたもののみを理論として認識するというメンタルモデルの仮定から、彼らが人文系教養に基づいた文章を肩書のみから評価するということを説明することが出来た。

2015年11月5日木曜日

金融市場の比喩としてのケインズの美人投票

 金融市場の比喩としてのケインズの美人投票はあまり好きではない。その理由は、美人投票というゲームが①各プレイヤーが市場ではなく他のプレイヤーの思惑を考えている②勝利条件が多数派に属することである③それらの帰結として、ゲーム理論的に最適戦略が求まってしまうこと(④各プレイヤーの間に本質的な個性の違いが無く、一様であること)の3(4)つである。
 少し詳しく書くと、美人投票では単純に自分が好きな人に投票するのがゲーム理論的に最適解の筈である。何故ならば、何も考えずに自分が好きな人に投票すれば、その人が一番人気である確率が一番高く(何故ならば、人気な人ほどファンが多いのだから、自分がその中に含まれると考えるのが自然だ)、かつ同じことを他のプレイヤーも考えるので、一番人気になりそうな人として自分の好きな人に投票する筈である。わざわざ「自分は嫌いだけれど他の人からは好まれそうだ」という人に対して投票するまい。複雑な心理戦をせず、自分のことだけ考えて高確率で多数派になり、勝利出来る選択を他の人の大多数が取らないと考えることは不自然であり、そうである以上自分もその状況で勝ちやすい、全く同じ戦略を取るべきである。少なくとも、プレイヤーに完全合理性を想定するならばそうなる筈である。
 では、より比喩として適切なのは何か。その一例はマイノリティゲームである。マイノリティゲームには①各プレイヤーは他のプレイヤーと直接競争するのではなく、あくまで過去のバーの出席人数と競争する②勝利条件が少数派に属することである③その帰結として、最適戦略が存在しない(④各プレイヤーの意思決定が多様であることがゲームの成立条件として要求されている)という特徴がある。
 各プレイヤーは、今までのバーの出席人数から今日のバーが空いているかを予測し、空いていそうなら行こうと考える。この時点で、実は彼は演繹的な完全合理性の世界観を捨て、inductive reasoningによって思考をしている。もし完全合理性の世界、バーの過去の出席人数ではなく他のプレイヤーと直接競争する世界なら、バーが空いているかどうかは確率1/2なのだから、確率的に行動すればよい。少なくとも、確率的に行動して損はないのだから、みんな確率的に考えている筈であるし、そう他の人が思うであろうと自分が思うのであるから、自分も確率的に振る舞うべきであるし、過去の履歴を見ても単なる乱数列、何の意味も無い。では、バーの出席人数の過去履歴を見ている世界とはどんなものか。過去の23、67、55、……のような出席人数を見て、次の出席人数を予想し、少なさそうならバーに行くという様子である。一見無意味な占いに見えるが、他の人も迷信じみた行動原理で動いている以上、時系列データに何らかの法則性が隠れていてもおかしくない。すると、この不可思議な行動に、ある種の合理性が生まれてくる。そしてまた、勝つのは少数派である。だから、絶対に有利な戦略などというものはあり得ない。もしそのような戦略が発見されれば、それを採用する者が増えるにつれ多数派に近付き、最終的には勝てなくなるからである。従って、常に勝ち続ける戦略は存在しない。戦略の強さはその時々の時流に依存している。また、少数派が勝つということは、(他のプレイヤーのことを考えないゲームであるが、結果的に)他のプレイヤーを出し抜いた者が勝つということも含意している。
 このような、常勝の最適戦略が存在せず、他人の裏を掻くゲームというのは金融市場にどことなく類似しているし、なにより、過去の時系列から将来を予想しようという発想は、テクニカル分析なり高性能コンピュータによって為されるHFT(High Frequency Trading、高頻度取引)のメカニズムに近いのではないか。