2015年8月30日日曜日

無駄をなくすと、無駄は減るのか

 世間では無駄をなくすのは常に良いことだとされているが、本当だろうか。寧ろ、多くの場合には無駄をなくしたつもりになっていても実際には減っておらず、他の人に押し付けただけだったりするのではないか。例えば、IT企業において「エクセルスクショ貼り」は完全な無駄と考えられているが、果たしてそうだろうか。もし、こういう誰でも出来る作業をなくしたとすると、職場で求められる技術レベルが上がり、失職する人が出てくるだろう。再就職が難しい場合、彼らは生活保護なり何なりで養わなければならないが、それは企業が「無駄」を持ちながら彼らに給料を払って養うのと、果たしてどちらがマシなのか。
 簡単な数理モデルを導入してみる。一人が生きるのに必要な資源を1としよう。最初に会社には100人の人がいて、100生産し、各社員は1の給料を受け取っているとする。この会社が、働きの悪い社員をリストラして効率化したとする。今度は社員50人、生産は75とする。すると、会社にとって生産の効率性は1.5倍になっている。利潤という点で言えば、例えば社員の給料を1から1.2に増やしたとすると、会社の手元に残る資源は最初の状態より15増えている。会社からリストラされる筈のない優秀な社員も会社の持ち主も、みんな最初より多くの資源を手にするから、この効率化にはほぼ必ず賛同することであろう。
 これだけならハッピーかもしれないが、会社を離れて社会全体を見てみると、リストラされた50人も養わなければならない。すると、効率化はしても生産の総量が減っているこの変化は、社会を貧しくする方向に向かっていることは明らかである。彼らが再就職出来れば問題ないのだが、全ての会社が「生産性を落とすような劣った労働者は雇わない」方針であるならば、再就職は困難であろう。つまり、局所的に効率化した結果、全体としては逆に悪化するのだ。
 このような論理はエクセルスクショ貼りだけでなく、他の事例にも応用出来よう。例えばある会社は家庭用ゲーム市場が衰退したのでその部署を縮小し、元々その部署で働いていたゲームデザイナーらをスポーツジムの清掃員か何かに配置換えしたらしいとのことでオタクから叩かれていたが、そのバッシングは本当に妥当だろうか?再就職が難しい人を雇用し、何らかの生産活動を行わせ、給料を払っているのだから先述の論理に従うと、これは善である筈だ。リストラするよりもずっと良い。そもそも、本人がその仕事よりももっと生産量の高い職場で働けるとするならば、そっちの会社へ転職する筈である(個人の生産量∝給料という近似を入れた)から、ジムで働き続けていること自体が、今の社会の中で彼らにとって一番生産量の多い職場がジムであることを表している。彼らをリストラしたところで、彼ら自身はもっと給料が低い会社で働かなければならないし、社会全体で見ても、社会全体の生産量は落ちる筈なのだ。国民全員を食わせていかなければならない現代の国家では、個々の企業の生産性ではなく、国全体での生産量を見るべきである。

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