2015年12月17日木曜日

ソフトサイエンスとハードサイエンスの区分の無意味さ

ミクロには生物細胞の内部や動物の呼吸器・循環器系に始まり、マクロには惑星内部や大気海洋、恒星や銀河、超銀河まで乱流現象であり、かなり多くの工学製品も乱流を利用することからも分かるように、世の中の流体現象の殆ど多くは乱流、正に乱流は流体力学の華だと思うんですけど、少なくない物理学者が乱流の研究がソフトサイエンスだと主張するのなら、ハードサイエンスとソフトサイエンスの区分に何か意義があるんですかね?ハードサイエンスとソフトサイエンスを区別しても得られる益は無く、単に学問にヒエラルキーを持ち込みたいだけなんじゃないかと邪推してしまうのですが。ハードサイエンスとソフトサイエンスの区分が「人間の主観性が含まれる現象か否か」というものであったのなら区別することに何か意味はありそうですけど、乱流という、それ自体全く意思の無い物体が引き起こす現象の研究がソフトサイエンスならばハードサイエンスとソフトサイエンスの区分がその定義ではないことは明らかですし。

※「ハードサイエンス主義者」から見て乱流がハードサイエンスに見えないのは、恐らく彼らは「物理学は少数の基礎原理から全ての法則が導かれるべきだ」と思っていて、しかし乱流の研究はNavier-Stokes方程式が解析的に解けないこともあり、観察された個々の現象をad hocに、その場その場で正しそうな仮説を単発、バラバラに作って当てはめていく傾向があるので、そういう基礎原理の無さがハードサイエンス主義者からみるとハードサイエンスではない=ソフトサイエンスなのだと推測される。