2015年9月25日金曜日

基礎でも応用でもない学問

 しばしば「産業界の圧力に押されて基礎学問が軽視されている」という主張が為され、そこでは基礎学問の例として数学や哲学、或いは物理学や文学が挙がられているが、これは適切だろうか。そしてそれらの基礎学問は真理を志向しており、経済的要求に従う応用とは違うということも同時に主張されることが多い。例えば松本眞(http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/~m-mat/NON-EXPERTS/SHIMINKOUEN1999/SUGAKUKAI/res5.pdf)等が典型だ。
 しかし、学問は真理を志向する基礎と経済的要求に応える応用とに分類出来るという考えは明確に間違っている。例えば文化人類学はどちらに分類されるのか。抽象的に思考を重ねて真理を追究せずにフィールドワークと身体感覚を重視しているから基礎ではないだろうし、しかし同時に何らかの産業的要求に従ったものでもなく、応用とも呼び難い。学問を基礎と応用に分けるという考えは、どちらにも分類されない学問への無知の表出でしかないのである。
 加えて、基礎学問という括りを以て、数学と哲学を仲間と見做し、それらに迫っている危機の原因を同一視することも批判したい。数学に関しては所謂実学に押されているという認識でもそう間違っていないかもしれない。しかし、哲学や文学にとって本質的なことはそれではない。今後哲学や文学らしい文学はそれ単独では人間や社会を語り得ないことである。即ち、心理学や文化人類学、経済学等の人間科学、社会科学が発達し、「自分はこう思いました」というレベルで人間や社会を語ることが出来なくなっている。例えばシェイクスピアを引き合いに人間の心や動きを語ったとしても、それは単なる思い込みであるとか、あくまで例外であって多くの場合には人はそうはしないだろうとか、いくらでも否定されてしまう。他にも内田樹とか東浩紀みたいな現代思想系の人が、現実の事象を語る時にしばしば全く関係のない物事と物事の間に関係を妄想し、陰謀論を展開することも例として挙げられる。今や、哲学や文学のみを以て人間や社会を語るのは意味がないどころか、その知名度や肩書によって真に有益な議論を覆い隠してしまい有害なのである。文学や哲学の重要性、価値を人間を知ること等に求めるのは最早不可能だ。そして今後は現実世界の事象を語る時に、哲学や文学は信用されなくなっていくであろう。であるから、哲学は現実世界の事象を扱うのを止め、完全に抽象的な、ないし空想の世界を扱わざるを得ない。しかしそうすると今度はソーカル事件のような問題も起き得る訳で、ではどうすれば哲学や文学が学問として生き残っていけるのか、これが本質的な問題である。これは丁度写真が登場した時に絵画がどう発展すべきか思い悩んだのと同じである。現実世界を映すのなら、哲学や文学より実験やフィールドワークをやる学問の方が絶対に強い訳で、これは真剣に考えねばなるまい。
 最後に、特定分野の学問の排斥がもしあるとすれば、それは基礎系学問よりもフィールドワーク系の方が先だということを述べておこう。基礎系の学問は天才ならばポンポン成果を出すことも出来るが、フィールドワークは10年単位の時間が掛かり、かつ天才も凡人と同じ程度の成果しか出せない。産業界や文科省の陰謀無しでも、学術界が自己生成したpublish or perishの論文量産文化の存在だけで死に得る分野なのだ。スモールワールドネットワークのダンカン・ワッツもそれ以降スモールワールド並みの派手な成果を挙げていないのも、フィールドワーク系に移ったかららしいという話もある。社会の圧力で基礎系が迫害されているという話の前に、現に研究が厳しくなっているフィールドワーク系を救うことを主張したらどうなのか。

個人的な印象として、数学系の人はしばしば哲学に夢を見過ぎるように思う。哲学の実体を知ろうとせず、偶像化した「哲学」を自分の主張の都合の良い形に拵えて崇拝している。
 

2015年9月11日金曜日

全てを学ばないと、一つも分からない

 学問というものは、全ての分野を一通り学ばなければ、自分の専門となる一つの分野でさえ真には理解出来ないのではないかと思う。特に社会科学ではそうだろう。というのも、学問の成果を実社会で使う際には、狭い学問範囲から出した最適解は他の学問分野によって導出されるような制約条件を満たしていなかったり、他の学問分野の対象の部分に大きな負荷を転嫁している可能性があるからである。
 極端に単純化した喩え話をしよう。教育学者の教育に関する意見が絶対に通る社会があったとしよう。ここで、「最高の教育」を実現する為にコストを無尽蔵に掛けたら、他のことをやる費用が無くなるし、それは例えば景気刺激策や社会保障等、他の分野の削減を意味する。つまり、自分の分野の予算拡充が過ぎれば他の分野を削らねばならないから、「最適な教育」というものは教育学の知見だけからは決して決められないし、決めるべきではない。その実例は例えば韓国で、大学受験当日に交通機関や警察が受験生に協力する等、明らかに日本よりも教育に熱心であるが、韓国の教育が日本のそれよりも優れているかというのは難しい。恐らく、教育に掛けるコストを削って新規事業立ち上げの支援や内需拡大策を取り、財閥主体の経済体制からの脱却を図った方が教育にとっても実は良いのではないか。そうなるメカニズムとして考えられるのは、教育学の範囲では外部から所与として与えられる条件が、社会情勢の変化によって変化し、改善されるというものである。即ち、教育制度や教育文化といった、教育に関係した分野だけから教育がどうあるべきかの最適解を導くことは出来ないし、この理屈は教育以外の分野にも言えるというのが私の結論である。

 私は大学教育の最大の目的は職業研究者の育成や研究そのものではなく、寧ろ民主主義社会で健全な意思決定の出来る教養人の育成だと思っているから、政治哲学や経済学等、全員が学ぶべき学問というのがあるんじゃないかとも思っている。

2015年9月9日水曜日

生き方の多様化と将来への悲観

 生き方の多様化は必然的に将来への悲観をもたらし、一部の強い人間以外にとっては寧ろ生活が苦しくなる。一見「個人の生き方がどのようなものであれ、それを肯定する」という考えは個人を幸福にするように見えて、実はそうではないのだ。それを理解する鍵は合成の誤謬にある。
 社会的状況が所与で不変であり、その前提の下であれば確かに多様な個人の生き方を認めた方が、自分の望みを肯定される確率が高いので幸福であろう。しかし、社会は決して所与のものでも、不変のものでもない。個人の多様な生き方を許容した時点で、社会的状況が大きく変化している。「多様な生き方を認める」ということは、裏返せば「特定の標準的生き方を強制する」ことの否定である。これだけならまだしも、実質的には「特定の標準的生き方の提示をも否定する」ことにまで、強硬な多様化論者の個人尊重の理屈に押し切られて進んでしまう。すると、何歳で何をするか、ロールモデルが失われて殆ど指針が立たなくなってしまう。社会に色々な人があり過ぎて、誰を自分の参考に出来るのかが分からず、10年20年後に自分がどうなっているのか予想出来ない。そもそも、多様化によって「将来なり得る人間のパターン」が増えている訳だから、その内のどれになれるのかの予測精度は必然的に落ちるだろう。だから高い将来の不確実性によって短期的な損得しか考えることが出来なくなり、長期的な行動、例えば結婚や出産、自宅の購入等が困難になる。このような世の中では、どのような状況でもやっていけるような一部のエリートしか安心して暮らせないし、非エリートの生活の崩壊によって経済も失速するであろう。大多数の平凡な人にとっては、標準的な生き方が、押し付けがましくとも必要であると結論付ける。

 直感的にも、自由な生き方よりもリストラや倒産の恐れの少ない企業に就職して安定した生活を送りたいと思っている人の方が圧倒的に多そうな時点で、このロジックは正しいんじゃないかと感じている。「就職が難しいことへの不安」とか、どう考えても「生き方を強制されて自由が無い」ことへの不満ではなく、「標準的なライフスタイルを得ることが出来ない」ことへの不満であろう。自由を得て嬉しいのは強者だけであって、多くの人にとってはデフォルトの選択肢が幸福である方が良いのだ。