(注)字数制限のある短いエッセイとして書いたので事実に対して適宜簡略化・誇張が入っています。
エージェントベースモデル(ABM)とは、コンピュータシミュレーションを使った社会科学の研究手法の一つである。周囲の状況を認知して意思決定し、行動して周囲に影響を及ぼす主体――エージェント――を多数仮想世界に作り、それらの集合として社会を構築する。これは叙述、数学に続く社会の第三の記述法である。
ABMは従来手法では検証出来なかった疑問に応えることが出来る。例えば叙述的方法では「ある因果を想定するとAだが、別の原因を考えるとBである」というように曖昧性が強く、どの説がより実像に近いのか、客観的決定が難しい。対して数学を用いると、Aをもたらす原因とBをもたらす原因の重みを比較することが出来、客観的な判断をし易くなる。しかし数学では、各個人が異なった選好や行動基準を持つような、複雑な状況を表現することが難しく、これは今までは叙述に頼らざるを得なかった。ABMを用いると、数学では難しかった多様な個人を扱いつつ、かつ叙述よりも原因と結果の関係を明確にすることが出来る。
ここで、人間の心理や行動は極めて複雑であるから、それを果たしてコンピュータプログラムに落とし込めるのか?という疑問を持つかもしれない。しかし心配は無用だ。特定の社会現象を再現するのに、人間の持つ全ての要素は要求されない。モデルにはその現象にとって本質的に重要だと思われる少数の要素を組み込むだけで良い。
それが可能だと分かっているのは、複雑系科学の遺産である。複雑系科学は多数の構成要素が相互作用する場合には、そのルールが極めて単純であっても、予測出来ない程複雑でかつしばしば現実の何らかの現象を模しているかのような挙動を示し得るということを明らかにした。
ではABMは、今後社会科学をどのように変え得るであろうか。既存の理論を全て置き換えてしまうのか。はたまた傍流に留まり、消えてしまうのか。恐らくそのどちらでもないだろうが、ABMのインパクトは分野毎に違うと思われるので、以下取り敢えず経済分野について考えてみよう。
ABMを単なる他の手法の補完としてではなく、本質的に別種の問題意識を持って使う分野として、進化経済学や経済物理がある。このうち前者は経済学には新古典派に代わる新しいパラダイムが必要であり、その候補の一つが我々であると主張している。彼らの主張では、新古典派には高い表現力があるから個々のアノマリーは説明出来るが、均衡と最適化を柱とするが故に、理論としての一貫性を作る中で構造的にドグマとパラドックスを生み出すと指摘する。そしてそれを乗り越える手段としてABMを使うのである。
しかし進化経済学によるパラダイムシフトはなり得るのか?それはまだ難しいのではないかという気がする。例えばケインズ革命を考えてみる。需要不足は起き得ないとするリカードの流れを組む新古典派に対しケインズは反論し、後世に学派を形成した。しかし需要不足の可能性はマルサスによって過去に指摘されていたのであり、では何故ケインズが言うまで受け入れられなかったのか。ケインズ曰く、マルサスは観察事実を指摘するだけで理論体系を提示出来なかったからだという。体系が無ければ考察がそれ以上進まず、詳細な検討を受けられないからパラダイムとして成長しないのであろう。ABMは学習や進化を扱える一方で、それらをどのように規定するかに決まった規則が無く、反証可能性に薄い。その場その場で異なる方法を使って事実を説明するだけでは、将来に対する予言がはっきりした形で行えない。仮令多くの間違いを含むとも、常に同じ原理で説明を行えば白黒付けられる予言を行える。新古典派の強みはそこにあり、過去のマルサスの事例を見るに進化経済学が主流となるのは難しいのではないかと予想する。
予言を時に諦め、実証から言える事実のみを言うべきだという主義ならば経済物理だが、その主義は社会科学ではなく自然科学のそれであろう。
2016年2月18日木曜日
2015年12月17日木曜日
ソフトサイエンスとハードサイエンスの区分の無意味さ
ミクロには生物細胞の内部や動物の呼吸器・循環器系に始まり、マクロには惑星内部や大気海洋、恒星や銀河、超銀河まで乱流現象であり、かなり多くの工学製品も乱流を利用することからも分かるように、世の中の流体現象の殆ど多くは乱流、正に乱流は流体力学の華だと思うんですけど、少なくない物理学者が乱流の研究がソフトサイエンスだと主張するのなら、ハードサイエンスとソフトサイエンスの区分に何か意義があるんですかね?ハードサイエンスとソフトサイエンスを区別しても得られる益は無く、単に学問にヒエラルキーを持ち込みたいだけなんじゃないかと邪推してしまうのですが。ハードサイエンスとソフトサイエンスの区分が「人間の主観性が含まれる現象か否か」というものであったのなら区別することに何か意味はありそうですけど、乱流という、それ自体全く意思の無い物体が引き起こす現象の研究がソフトサイエンスならばハードサイエンスとソフトサイエンスの区分がその定義ではないことは明らかですし。
※「ハードサイエンス主義者」から見て乱流がハードサイエンスに見えないのは、恐らく彼らは「物理学は少数の基礎原理から全ての法則が導かれるべきだ」と思っていて、しかし乱流の研究はNavier-Stokes方程式が解析的に解けないこともあり、観察された個々の現象をad hocに、その場その場で正しそうな仮説を単発、バラバラに作って当てはめていく傾向があるので、そういう基礎原理の無さがハードサイエンス主義者からみるとハードサイエンスではない=ソフトサイエンスなのだと推測される。
※「ハードサイエンス主義者」から見て乱流がハードサイエンスに見えないのは、恐らく彼らは「物理学は少数の基礎原理から全ての法則が導かれるべきだ」と思っていて、しかし乱流の研究はNavier-Stokes方程式が解析的に解けないこともあり、観察された個々の現象をad hocに、その場その場で正しそうな仮説を単発、バラバラに作って当てはめていく傾向があるので、そういう基礎原理の無さがハードサイエンス主義者からみるとハードサイエンスではない=ソフトサイエンスなのだと推測される。
「統計解析をしないと差が分からないような差は意味がない」という査読コメントに唖然としている。
— Biochem fan@科学にはOSSを (@biochem_fan) 2015, 12月 17
しかし、物理学などの「ハードサイエンス」をやっている人はほぼ全員、心ひそかにそう思っていることは知っておいたほうが良い。 https://t.co/BbkDMHBgSu
— 田口善弘 (@Yh_Taguchi) 2015, 12月 17
@seigaikijin495 乱流の研究が本当の意味では物理になってないと思っている人は実は結構多いです 実際に物理学科からはかなりの割合で乱流の研究室が消滅しました 物理の中でも非線形よりのものは昔から「ソフトサイエンス」として揶揄されているんですよ(笑)
— 田口善弘 (@Yh_Taguchi) 2015, 12月 17
2015年11月20日金曜日
理論と体系に関する典型的理系人の認識について
典型的な理系人、特に数学や情報系に多いのだが、彼らは自分が理論を基礎から理解していることを誇り、その重要性を言う。曰く、実用目的の応用のみでは早晩行き詰る、そうなった時に問題を解決出来るのは基礎に戻って考えることの出来る我々のみだ、と。そして同時に、応用でないという理由からか、哲学等の人文系教養を尊重していると主張する者が少なくない。しかし彼らに、人文系教養のロジックで書かれた文章を、哲学なり何なりの肩書を付けずに渡してみると、それをポエムとしか認識出来ず、理解を拒む。この現象に関して、以前私はその理由を、基礎学問に権威を感じているからだろうと考えたが、その発想に対して今回は修正を加える。彼らの認識の説明には、彼らがある学問が基礎であること自体に権威を感じていること以上に、体系を成していない理論の集まりを理論として認識出来ないことが重要な要因である。この修正により、何故基礎理論原理主義者は数学や情報(、或いは物理)の分野から多く出現するかまで説明可能となる。
数学の理論は、その多くが公理とそこからの演繹という形で作られる。情報に関してはよく知らないが、数学に近い学問であるらしいから、恐らく似た構造であろうし、そうでなくとも学ぶ者のメンタリティは近いと思われるので、以下の議論において数学系と全く同様に扱っても間違いではないと想定する。そのような学問においては、全ての主張がそれ以前の主張から演繹されたものであり、どんどん源流を辿っていくと最終的には誰かが恣意的に考えた公理(今考えている学問世界の基本法則、ないしルールのようなもの)に到達する。また自分が新しく主張を作る際にも、必ずそれ以前のものからの演繹という形を取る。従って、この学問世界において、どの主張がどの主張を導いたのかを矢印を描いて整理していくと(一つの主張をノード、主張と主張の導出関係を有向リンクで表現する)、幾つかの公理から生えてくる、枝分かれする樹のような構造になる筈である(しかしグラフ理論の言う、厳密な意味でのtreeではない。菱形のような構造もここにはある筈だからだ)。彼らは、そういう構造で表現される体系に含まれる主張、及びその集まりのみを理論として認識するし、何らかの主張を見た時、その主張が自分の知っている何れかの「樹」のどこかに組み込むことが出来るかどうかで、その主張が根拠のある理論なのか、それとも意味のないポエムなのかを判断している。そうであるから、人文系教養に基づいた文章を読んだ時、例えば「これはカントの本です」とか言われれば「ああ何々哲学で、何々を継承しているのだろう」ということが、具体的な「何々」の内容が分からなくても、「カント」という名前から「何々」が存在すること自体は感じ取り、まともな学問であると認識するのだろう。但しあくまで主張の内容から構造の存在を感知した訳ではないから、人文系教養を含んだ文章を「カント」等の説明無しに渡すと構造を認知出来ず、彼らはそれをポエムであると認識する。これによって、表面上は「典型的理系人は、人文系教養に則った文章を、哲学なり何なりという肩書からのみ判断する」という現象が再現される。ここから更に推論を続けると、だからこそポストモダンというか何というか(ポストモダンという語を使ったのは、新興の思想哲学分野にどういうものがあるのか私が知らないからそれっぽいものを持ってきただけであり、特に意味はない)、そういう新興の分野に対しては彼らは恐らく懐疑的なのではないかと予想される。何故ならば、以前の理論から導出されたものではなく、様々な雑多な主張がバラバラに生まれており、体系ではないからだ。余談だが、この予想の正否によって、私の主張は検証出来るのではないかと思っている。
さて、上述のような理系人が、数学や情報以外からはそれほど産出されない理由を述べよう。それはすごく単純な話で、工学や医学等は数学や情報ほどには体系立っていないからだ。以前から確立されている主張から導出が為されるのを待たず、必要に応じて新しい主張が継ぎ足されていくのであるから、樹木のような構造がある筈もない。実際、典型的理系人はしばしば工学を見下しており、私の観察と主張はその内部において整合性は保たれている。工学や医学では理論を現実に合わせて曲げていくことを是とするから、数学や情報系のような、肩書のみから人文系教養に基づいた文章を判断することは相対的に少ないだろう。尤も、工学系には数学や情報に憧憬を抱く者が少なくないから、医学系よりは典型的理系人になってしまう確率は高い。物理系は工学系以上に数学に近いから、典型的理系人になる確率は工学系よりも高いのだが、物理学には例えば乱流のような体系立ってない分野もあり、そういう分野の人は典型的理系人になる確率は低いだろうと予想する。
結論としては、典型的理系人は体系に組み込まれたもののみを理論として認識するというメンタルモデルの仮定から、彼らが人文系教養に基づいた文章を肩書のみから評価するということを説明することが出来た。
2015年10月21日水曜日
宮田氏の評に対する返答
先日の記事(http://seigaikijin495.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html)に対して宮田氏が論評を載せていた(http://yagatekikoeru.blogspot.jp/p/blog-page.html)ので、それに対する返答を書く。
宮田氏の文章を読んで感じるのは、ロジックが不鮮明、ないし掴みづらいということである。そういう感想それ自体が恐らく彼曰く“他にも思想=文体があるにも拘らず、すべての文章が彼と同じ「アイデア」で書かれている、と想定している。”ということなのだとは思うが。宮田氏の文章で一番の心臓は“このことは慣れている人には自明のことなのだが(以下略)”の段落だと思うのだが、比喩がありながらも具体的な逸話がなく、その点が私には分かりにくい。なので私がその内容を、極一部ではあるのだが、理解しようと努めた時には次の段落に述べるアリストテレスの喩え話を作らなければならなかった。これは個々人による納得の生じ方の違いなのかという気がする。
間違っている可能性が低くないことを承知で言えば、恐らく宮田氏の念頭にあるのは、ある一つのテキストの読まれ方が一つに固定されてしまうことへの危惧、コンテキストの変化によってその文章が持つ「歴史的(?)」意味が変化していくことから目をそらさないことなのではないかと思う。私の憶測であり、史実を反映しているとは言えないので妥当性に疑問があるであろうが、次に挙げる喩え話の真偽は議論の結論には影響しないと考えられるので、それを述べさせてもらう。また、著者と著作の区別も無視する。アリストテレスは同時代人から見れば医学や自然学にも深い造詣があり、狭義の哲学者というよりはあらゆる学問の専門家として思われていたであろう。少なくともイスラム圏においては、教義の理論武装に使われた哲学者としての側面だけでなく、イスラム科学の発展に大いに貢献したことから推測されるように、偉大な科学者でもあっただろう。イスラム圏に渡ったアリストテレスがキリスト教圏に流入した当初は、哲学と教義の矛盾が問題となった。アリストテレスは、キリストへの反逆者だと捉えた者もいたに違いない――アリストテレスの生きていた時代には、まだキリストは生まれてすらいなかったにも関わらず。しかしトマス・アクイナスがアリストテレスとキリスト教を統合すると、今度は逆にキリスト教の根本思想になった。すると、今度はガリレオ等の科学者の学術的活動を阻害するようになり、アリストテレスの科学者としての側面は失われ、頑迷な宗教者になった。(余談であるが、現代においても少なくとも物理学者はアリストテレスを科学者だとはあまり思っていないだろう。物理学の歴史は多くの場合ニュートン、そうでない場合にはガリレオから始まる。)そして現代においては、アリストテレスは宗教者としてではなく、専ら哲学者として見られ、科学活動については哲学の一部として考えられている。このように、アリストテレスは時代と読者の相違によって全く違った理解がなされており、確かに私が先日述べた“作者のメンタルモデルを考えるということ”の範疇を超えていると考えられる。アリストテレスが何者であるかは、アリストテレス本人だけでなく読者やコンテキストにも依存している。読者が自分自身の中にあった何ものかをアリストテレスに投影していると言えるかもしれない。尤も、このアリストテレス問題は私が見落としていたことのあくまで一つに過ぎず、恐らく宮田氏の述べたかった内容はより広範なのではないかという気がするが。
しかし、私がアリストテレス問題を先日の記事において考えていなかったのは、先日に想定していた問題はより短い時間スケールの問題だったからである。社会や政治を語る時、しばしば一面的、それどころか単なるこじつけや言いがかりから煽情的なタイトル、主張を作り、拡散するような問題を主に考えていた。例えば福島県への風評被害等。確かに、社会や政治、それどころか科学においても複数の解釈、読解は存在するものではあるが、それは必ずしも任意の読み方が同等に正しいということを保証しない。実際には、明らかに間違った読み方が存在する。例えば「原発腫瘍は放射線から発生したものだ」等。私が著者のメンタルモデルや歴史の重要性を主張したのは、如何にしてその主張が生成されたか、それ以前の積み重ねを踏まえることにより間違った解釈を取り除くことを念頭に置いている。これを怠れば、絶対にある一つの解釈が正しいという権威主義に陥るか、さもなければ全ての主張は同等という悪しき相対主義に至るかしかあり得ない。このような状況であった為、アリストテレス問題は見逃されたのである。
また、ビジネス書や自己啓発本に関する議論に関しても、言わなければならないことがある。書いていなかったことを後から付け加える訳であり、卑怯なのだが容赦して欲しい。ビジネス書や自己啓発本というのが具体例として挙げられているのは、理学系の所謂意識低い系が最も馬鹿にするものであるからに過ぎず、議論において哲学に通じると言いたかった本はまた少し違っている。私としては、ビジネス書や自己啓発本でさえ思想に通じる可能性があるのだから、『私が想定している本たち』をや、と言いたかったのである。あの段落の目的は、本来は理学系意識低い系の啓蒙である。彼らは明瞭かつ一意的に解釈出来るものにしか高い価値を置こうとしない。また、同時に具体的なものを卑しいと考える。具体的な事例は必ず理念と比べて歪んでいるのだから、唯一性を愛する彼らがこれを嫌うのは整合的である。これらの価値観により、彼らは数学や情報、或いは理論物理を好み、その他を見下す。こういう手合いは理系にいれば無数に見るものであって、その精神性は、理学部のそれと比べれば薄いとはいえ、工学部にすら溶け込んでいる。これが理系の学生の間における、「数学的でない」ことを勉強することの軽視に繋がっている。例えばそれは工学倫理であったり、また機械や構造物の設計において如何にして要求項目を達成し、創造を成し得るかという人間の頭の使い方、発想の技法、マネジメントであったりする。このような具体的な例は幾らでも挙げられるであろう。では、数学的でないものを見下す態度は何故批判されなければならないのか。その理由は、世に言われる理系不遇論の殆どが単に文系なり日本社会が悪いと言うのみであり、理系の非理系的なるものへの無知を無視しており、それが問題解決の遅れ、ないし理系による他への逆恨みを醸成しているからである。理系が不遇だというのは私に言わせれば理系自身の非理系的なるものの軽視に伴うある種の社会的能力の欠如が原因であり、理系であること自体が不遇をもたらしている訳ではない。文系や体育会系であろうと社会的能力が欠如していれば不遇は免れない。それ自体は社会が高度に組織化され、個人のみでは生活に必要なものを何一つ生産出来ないことから生じる必然であり、解消することは出来ない。であるから、理系不遇の問題を解決しようと思うのなら、理系自身が勉強することが求められている。にも関わらず彼らは不満を言うだけであり、問題解決に対してなんら実効性のあることを主張、行動することがない。このような態度は、少なくとも私にとっては不快である。尤も彼らは、口では非理系的なるものを軽視などしていないと言う。文系的教養、特に哲学は重く見ていると。しかしそれは偽りである。彼らは文章や主張が哲学等の学問の名において渡される時にはそれを尊敬するような素振りを見せるが、内容を理解している訳でなく権威に盲従し、また教養や哲学を解さない者として軽蔑されるのを嫌っているだけであるから、肩書無しで教養や哲学を踏まえた文章を渡されると堂々と自分がその文章を理解出来ないことを誇り、この文章は論理の体を成していない、空虚なポエムだと言い始める。彼らを救うにあたってどうすれば良いのか、それが問題意識としてある。そこで私が出した結論が、(事実関係が科学的に間違っている等の一部の例外を除いて)全ての文章を尊敬し、歴史や著者のメンタルモデルを踏まえることで字面以上のことを学ぼうということなのである。彼らにいきなり哲学や思想を与えたところで分かったふりをするだけで無意味だ、それらを解するにはそれなりの積み重ねが必要である。彼らに必要なのは離乳食である。理解に難し過ぎず、かつ内容的に浅過ぎない。だが彼らは数理を貴ぶ理系のプライドにより、それらを受け付けない。仮令一部を受け付けたにしても、同等の深みを持つ本たちに対して自ずと序列を付け始め、どうしても拒絶する本が間違いなく出現する。そうであるから、ビジネス書や自己啓発本といった彼らの中で最底辺の価値すら持たないものにさえ本当は価値があると思わせ、如何なる文章に対しても深く理解してやろう、多くを学んでやろうという精神性を身に付けてもらう必要がある。分かり易そうに見えるものを見下す精神を、捨てねばならないというのが本意である。
宮田氏の文章を読んで感じるのは、ロジックが不鮮明、ないし掴みづらいということである。そういう感想それ自体が恐らく彼曰く“他にも思想=文体があるにも拘らず、すべての文章が彼と同じ「アイデア」で書かれている、と想定している。”ということなのだとは思うが。宮田氏の文章で一番の心臓は“このことは慣れている人には自明のことなのだが(以下略)”の段落だと思うのだが、比喩がありながらも具体的な逸話がなく、その点が私には分かりにくい。なので私がその内容を、極一部ではあるのだが、理解しようと努めた時には次の段落に述べるアリストテレスの喩え話を作らなければならなかった。これは個々人による納得の生じ方の違いなのかという気がする。
間違っている可能性が低くないことを承知で言えば、恐らく宮田氏の念頭にあるのは、ある一つのテキストの読まれ方が一つに固定されてしまうことへの危惧、コンテキストの変化によってその文章が持つ「歴史的(?)」意味が変化していくことから目をそらさないことなのではないかと思う。私の憶測であり、史実を反映しているとは言えないので妥当性に疑問があるであろうが、次に挙げる喩え話の真偽は議論の結論には影響しないと考えられるので、それを述べさせてもらう。また、著者と著作の区別も無視する。アリストテレスは同時代人から見れば医学や自然学にも深い造詣があり、狭義の哲学者というよりはあらゆる学問の専門家として思われていたであろう。少なくともイスラム圏においては、教義の理論武装に使われた哲学者としての側面だけでなく、イスラム科学の発展に大いに貢献したことから推測されるように、偉大な科学者でもあっただろう。イスラム圏に渡ったアリストテレスがキリスト教圏に流入した当初は、哲学と教義の矛盾が問題となった。アリストテレスは、キリストへの反逆者だと捉えた者もいたに違いない――アリストテレスの生きていた時代には、まだキリストは生まれてすらいなかったにも関わらず。しかしトマス・アクイナスがアリストテレスとキリスト教を統合すると、今度は逆にキリスト教の根本思想になった。すると、今度はガリレオ等の科学者の学術的活動を阻害するようになり、アリストテレスの科学者としての側面は失われ、頑迷な宗教者になった。(余談であるが、現代においても少なくとも物理学者はアリストテレスを科学者だとはあまり思っていないだろう。物理学の歴史は多くの場合ニュートン、そうでない場合にはガリレオから始まる。)そして現代においては、アリストテレスは宗教者としてではなく、専ら哲学者として見られ、科学活動については哲学の一部として考えられている。このように、アリストテレスは時代と読者の相違によって全く違った理解がなされており、確かに私が先日述べた“作者のメンタルモデルを考えるということ”の範疇を超えていると考えられる。アリストテレスが何者であるかは、アリストテレス本人だけでなく読者やコンテキストにも依存している。読者が自分自身の中にあった何ものかをアリストテレスに投影していると言えるかもしれない。尤も、このアリストテレス問題は私が見落としていたことのあくまで一つに過ぎず、恐らく宮田氏の述べたかった内容はより広範なのではないかという気がするが。
しかし、私がアリストテレス問題を先日の記事において考えていなかったのは、先日に想定していた問題はより短い時間スケールの問題だったからである。社会や政治を語る時、しばしば一面的、それどころか単なるこじつけや言いがかりから煽情的なタイトル、主張を作り、拡散するような問題を主に考えていた。例えば福島県への風評被害等。確かに、社会や政治、それどころか科学においても複数の解釈、読解は存在するものではあるが、それは必ずしも任意の読み方が同等に正しいということを保証しない。実際には、明らかに間違った読み方が存在する。例えば「原発腫瘍は放射線から発生したものだ」等。私が著者のメンタルモデルや歴史の重要性を主張したのは、如何にしてその主張が生成されたか、それ以前の積み重ねを踏まえることにより間違った解釈を取り除くことを念頭に置いている。これを怠れば、絶対にある一つの解釈が正しいという権威主義に陥るか、さもなければ全ての主張は同等という悪しき相対主義に至るかしかあり得ない。このような状況であった為、アリストテレス問題は見逃されたのである。
また、ビジネス書や自己啓発本に関する議論に関しても、言わなければならないことがある。書いていなかったことを後から付け加える訳であり、卑怯なのだが容赦して欲しい。ビジネス書や自己啓発本というのが具体例として挙げられているのは、理学系の所謂意識低い系が最も馬鹿にするものであるからに過ぎず、議論において哲学に通じると言いたかった本はまた少し違っている。私としては、ビジネス書や自己啓発本でさえ思想に通じる可能性があるのだから、『私が想定している本たち』をや、と言いたかったのである。あの段落の目的は、本来は理学系意識低い系の啓蒙である。彼らは明瞭かつ一意的に解釈出来るものにしか高い価値を置こうとしない。また、同時に具体的なものを卑しいと考える。具体的な事例は必ず理念と比べて歪んでいるのだから、唯一性を愛する彼らがこれを嫌うのは整合的である。これらの価値観により、彼らは数学や情報、或いは理論物理を好み、その他を見下す。こういう手合いは理系にいれば無数に見るものであって、その精神性は、理学部のそれと比べれば薄いとはいえ、工学部にすら溶け込んでいる。これが理系の学生の間における、「数学的でない」ことを勉強することの軽視に繋がっている。例えばそれは工学倫理であったり、また機械や構造物の設計において如何にして要求項目を達成し、創造を成し得るかという人間の頭の使い方、発想の技法、マネジメントであったりする。このような具体的な例は幾らでも挙げられるであろう。では、数学的でないものを見下す態度は何故批判されなければならないのか。その理由は、世に言われる理系不遇論の殆どが単に文系なり日本社会が悪いと言うのみであり、理系の非理系的なるものへの無知を無視しており、それが問題解決の遅れ、ないし理系による他への逆恨みを醸成しているからである。理系が不遇だというのは私に言わせれば理系自身の非理系的なるものの軽視に伴うある種の社会的能力の欠如が原因であり、理系であること自体が不遇をもたらしている訳ではない。文系や体育会系であろうと社会的能力が欠如していれば不遇は免れない。それ自体は社会が高度に組織化され、個人のみでは生活に必要なものを何一つ生産出来ないことから生じる必然であり、解消することは出来ない。であるから、理系不遇の問題を解決しようと思うのなら、理系自身が勉強することが求められている。にも関わらず彼らは不満を言うだけであり、問題解決に対してなんら実効性のあることを主張、行動することがない。このような態度は、少なくとも私にとっては不快である。尤も彼らは、口では非理系的なるものを軽視などしていないと言う。文系的教養、特に哲学は重く見ていると。しかしそれは偽りである。彼らは文章や主張が哲学等の学問の名において渡される時にはそれを尊敬するような素振りを見せるが、内容を理解している訳でなく権威に盲従し、また教養や哲学を解さない者として軽蔑されるのを嫌っているだけであるから、肩書無しで教養や哲学を踏まえた文章を渡されると堂々と自分がその文章を理解出来ないことを誇り、この文章は論理の体を成していない、空虚なポエムだと言い始める。彼らを救うにあたってどうすれば良いのか、それが問題意識としてある。そこで私が出した結論が、(事実関係が科学的に間違っている等の一部の例外を除いて)全ての文章を尊敬し、歴史や著者のメンタルモデルを踏まえることで字面以上のことを学ぼうということなのである。彼らにいきなり哲学や思想を与えたところで分かったふりをするだけで無意味だ、それらを解するにはそれなりの積み重ねが必要である。彼らに必要なのは離乳食である。理解に難し過ぎず、かつ内容的に浅過ぎない。だが彼らは数理を貴ぶ理系のプライドにより、それらを受け付けない。仮令一部を受け付けたにしても、同等の深みを持つ本たちに対して自ずと序列を付け始め、どうしても拒絶する本が間違いなく出現する。そうであるから、ビジネス書や自己啓発本といった彼らの中で最底辺の価値すら持たないものにさえ本当は価値があると思わせ、如何なる文章に対しても深く理解してやろう、多くを学んでやろうという精神性を身に付けてもらう必要がある。分かり易そうに見えるものを見下す精神を、捨てねばならないというのが本意である。
2015年10月18日日曜日
思想の理解と歴史、著者のメンタルモデルから源流の哲学を辿ることについて
文章を読む際に書かれた文字列の意味そのものを理解しようとするのは明らかに間違いである。体得すべきなのは、書いた著者のメンタルモデル、即ち、何を想定して何を念頭に置いていたのかということである。人間が文章を書く時、文章という表現形式の限界か、自分の考えていることをそのまま書き表すことは出来ない。必ず内容の歪みや欠落を伴うし、かつその変形の仕方はその個人の特性や文章という表現形式等の影響により、均一ではない。例えばある人はある主張の前提となる考えは常識であるとしてつい書き忘れてしまうかもしれないし、そもそもカオスアトラクタのような文章という表現形式ではそもそも表現出来ないものもある。そうであるから、いくらある著者の文章を大量に読み込んだところで、彼が表現したかった真の内容からの乖離は一定以下までしか埋まらず、理解は深まらない。(もし歪みや欠落が純粋にランダムであったならば、大量に読めばある部分で書き落とした内容が他の部分で補充され、理解は深まっていく筈であるが。)このことは以下展開する論の大前提とする。
さて、では文章は如何にして理解されるべきか。そこで重要となるのが歴史である。著者がどのような時代に生きていたか、その時に問題になっていたことは何で、そして何故それに対し著者が心を痛め、砕いたかという問題意識を共有する必要がある。例えば経済学において全く以て相反する理論が同時に存在し、かつそれらが共に尊敬を受けるのは何故か。経済学の理論は本質的に「人間に何らかの行動原理を仮定し、その仮定から数学的に結論を演繹すること」であるから、行動原理の仮定の仕方によって、任意の自分に好ましい結論を導出することが出来る。複数の対立する理論の雌雄を決するのは理屈の上では統計によって為されるべきであるが、現実的には統計の不確実性、またそもそも何を計量するかという恣意性の存在等により、不可能である。そうであるから、理論の良し悪しはその理論を考案するに至った思想的展開、根源的問題意識を考え、その問題が現在においても存続しているのか、また提案される解決法が有用に見えるのかといった、考案者のメンタルモデルに踏み込む必要が出てくる。同様の推察は論理展開を少し変えれば経済学以外の他の事象にも適用可能である。即ち、文章は歴史無しに理解は出来ない。
著者のメンタルモデルに踏み込んで考えれば、例えばビジネス書や自己啓発本を読んで哲学書を理解し、また逆に哲学書を読んでそれを誰にでも分かるビジネス書や自己啓発書に翻訳するようなことが出来ないといけない。詳細に述べよう。恐らくビジネス書や自己啓発本は、著者が労働の中で得た体験を巷に溢れる本から理屈を引っ張ってきたものである筈である。著者が理論補強において参考にした本たちも、また別の本を参考にしていた筈である。この推論を続けていくと、最終的には間違いなく哲学書に至る。この世の思想の原型の殆どは哲学者が既に編み出しているものであるからだ。ということは、一見軽薄に見えるビジネス書や自己啓発本もその源流には哲学があり、では何故本来抽象的であり何らかの実用目的にはそぐわない哲学が実利目的の本で使われるかと言えば、それはビジネス書や自己啓発本の著者の体験が両者を結び付けるからである。著者のこうすれば何故か上手くいったという多数の経験に対して、それらを統一的に説明する一貫したストーリー、理由づけ、解釈を哲学が与えているのである。そうであるから、著者のメンタルモデルを文章から推測するように読んでいけば、源流となった哲学の一端に到達することが出来る筈である。これがビジネス書や自己啓発本から哲学を理解するということである。その逆である、哲学書を自分なりにビジネス書や自己啓発本に翻訳してみるというのは、もう説明は不要だろう。
このことを理解せず、「書かれた文章はそれ自体のみで十分に理解出来る」と考える者がどういう者なのかと言うと、それは例えば所謂意識高い系であったり、反対に真理を目指す基礎学問を無上の価値と見做す、学問盲信者であったりする。意識高い系が自己啓発をし就活をしようとも思想になかなか至らないことは多々見られることである。学問盲信者は学問だけが思想に至る道であると思い込み、意識高い系を思想に到達し得ない者として見下す。これの実例として、少なくない数学や情報系が自分がよく知りもしない哲学をただ哲学であるとの理由で尊敬し、内容的にはそれに劣らぬものの無名の文章に関してはポエムとして軽蔑するのはよく観察されることであろう。結局、意識高い系も学問盲信者もいずれも等しく間違っている。
さて、では文章は如何にして理解されるべきか。そこで重要となるのが歴史である。著者がどのような時代に生きていたか、その時に問題になっていたことは何で、そして何故それに対し著者が心を痛め、砕いたかという問題意識を共有する必要がある。例えば経済学において全く以て相反する理論が同時に存在し、かつそれらが共に尊敬を受けるのは何故か。経済学の理論は本質的に「人間に何らかの行動原理を仮定し、その仮定から数学的に結論を演繹すること」であるから、行動原理の仮定の仕方によって、任意の自分に好ましい結論を導出することが出来る。複数の対立する理論の雌雄を決するのは理屈の上では統計によって為されるべきであるが、現実的には統計の不確実性、またそもそも何を計量するかという恣意性の存在等により、不可能である。そうであるから、理論の良し悪しはその理論を考案するに至った思想的展開、根源的問題意識を考え、その問題が現在においても存続しているのか、また提案される解決法が有用に見えるのかといった、考案者のメンタルモデルに踏み込む必要が出てくる。同様の推察は論理展開を少し変えれば経済学以外の他の事象にも適用可能である。即ち、文章は歴史無しに理解は出来ない。
著者のメンタルモデルに踏み込んで考えれば、例えばビジネス書や自己啓発本を読んで哲学書を理解し、また逆に哲学書を読んでそれを誰にでも分かるビジネス書や自己啓発書に翻訳するようなことが出来ないといけない。詳細に述べよう。恐らくビジネス書や自己啓発本は、著者が労働の中で得た体験を巷に溢れる本から理屈を引っ張ってきたものである筈である。著者が理論補強において参考にした本たちも、また別の本を参考にしていた筈である。この推論を続けていくと、最終的には間違いなく哲学書に至る。この世の思想の原型の殆どは哲学者が既に編み出しているものであるからだ。ということは、一見軽薄に見えるビジネス書や自己啓発本もその源流には哲学があり、では何故本来抽象的であり何らかの実用目的にはそぐわない哲学が実利目的の本で使われるかと言えば、それはビジネス書や自己啓発本の著者の体験が両者を結び付けるからである。著者のこうすれば何故か上手くいったという多数の経験に対して、それらを統一的に説明する一貫したストーリー、理由づけ、解釈を哲学が与えているのである。そうであるから、著者のメンタルモデルを文章から推測するように読んでいけば、源流となった哲学の一端に到達することが出来る筈である。これがビジネス書や自己啓発本から哲学を理解するということである。その逆である、哲学書を自分なりにビジネス書や自己啓発本に翻訳してみるというのは、もう説明は不要だろう。
このことを理解せず、「書かれた文章はそれ自体のみで十分に理解出来る」と考える者がどういう者なのかと言うと、それは例えば所謂意識高い系であったり、反対に真理を目指す基礎学問を無上の価値と見做す、学問盲信者であったりする。意識高い系が自己啓発をし就活をしようとも思想になかなか至らないことは多々見られることである。学問盲信者は学問だけが思想に至る道であると思い込み、意識高い系を思想に到達し得ない者として見下す。これの実例として、少なくない数学や情報系が自分がよく知りもしない哲学をただ哲学であるとの理由で尊敬し、内容的にはそれに劣らぬものの無名の文章に関してはポエムとして軽蔑するのはよく観察されることであろう。結局、意識高い系も学問盲信者もいずれも等しく間違っている。
2015年9月25日金曜日
基礎でも応用でもない学問
しばしば「産業界の圧力に押されて基礎学問が軽視されている」という主張が為され、そこでは基礎学問の例として数学や哲学、或いは物理学や文学が挙がられているが、これは適切だろうか。そしてそれらの基礎学問は真理を志向しており、経済的要求に従う応用とは違うということも同時に主張されることが多い。例えば松本眞(http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/~m-mat/NON-EXPERTS/SHIMINKOUEN1999/SUGAKUKAI/res5.pdf)等が典型だ。
しかし、学問は真理を志向する基礎と経済的要求に応える応用とに分類出来るという考えは明確に間違っている。例えば文化人類学はどちらに分類されるのか。抽象的に思考を重ねて真理を追究せずにフィールドワークと身体感覚を重視しているから基礎ではないだろうし、しかし同時に何らかの産業的要求に従ったものでもなく、応用とも呼び難い。学問を基礎と応用に分けるという考えは、どちらにも分類されない学問への無知の表出でしかないのである。
加えて、基礎学問という括りを以て、数学と哲学を仲間と見做し、それらに迫っている危機の原因を同一視することも批判したい。数学に関しては所謂実学に押されているという認識でもそう間違っていないかもしれない。しかし、哲学や文学にとって本質的なことはそれではない。今後哲学や文学らしい文学はそれ単独では人間や社会を語り得ないことである。即ち、心理学や文化人類学、経済学等の人間科学、社会科学が発達し、「自分はこう思いました」というレベルで人間や社会を語ることが出来なくなっている。例えばシェイクスピアを引き合いに人間の心や動きを語ったとしても、それは単なる思い込みであるとか、あくまで例外であって多くの場合には人はそうはしないだろうとか、いくらでも否定されてしまう。他にも内田樹とか東浩紀みたいな現代思想系の人が、現実の事象を語る時にしばしば全く関係のない物事と物事の間に関係を妄想し、陰謀論を展開することも例として挙げられる。今や、哲学や文学のみを以て人間や社会を語るのは意味がないどころか、その知名度や肩書によって真に有益な議論を覆い隠してしまい有害なのである。文学や哲学の重要性、価値を人間を知ること等に求めるのは最早不可能だ。そして今後は現実世界の事象を語る時に、哲学や文学は信用されなくなっていくであろう。であるから、哲学は現実世界の事象を扱うのを止め、完全に抽象的な、ないし空想の世界を扱わざるを得ない。しかしそうすると今度はソーカル事件のような問題も起き得る訳で、ではどうすれば哲学や文学が学問として生き残っていけるのか、これが本質的な問題である。これは丁度写真が登場した時に絵画がどう発展すべきか思い悩んだのと同じである。現実世界を映すのなら、哲学や文学より実験やフィールドワークをやる学問の方が絶対に強い訳で、これは真剣に考えねばなるまい。
最後に、特定分野の学問の排斥がもしあるとすれば、それは基礎系学問よりもフィールドワーク系の方が先だということを述べておこう。基礎系の学問は天才ならばポンポン成果を出すことも出来るが、フィールドワークは10年単位の時間が掛かり、かつ天才も凡人と同じ程度の成果しか出せない。産業界や文科省の陰謀無しでも、学術界が自己生成したpublish or perishの論文量産文化の存在だけで死に得る分野なのだ。スモールワールドネットワークのダンカン・ワッツもそれ以降スモールワールド並みの派手な成果を挙げていないのも、フィールドワーク系に移ったかららしいという話もある。社会の圧力で基礎系が迫害されているという話の前に、現に研究が厳しくなっているフィールドワーク系を救うことを主張したらどうなのか。
個人的な印象として、数学系の人はしばしば哲学に夢を見過ぎるように思う。哲学の実体を知ろうとせず、偶像化した「哲学」を自分の主張の都合の良い形に拵えて崇拝している。
しかし、学問は真理を志向する基礎と経済的要求に応える応用とに分類出来るという考えは明確に間違っている。例えば文化人類学はどちらに分類されるのか。抽象的に思考を重ねて真理を追究せずにフィールドワークと身体感覚を重視しているから基礎ではないだろうし、しかし同時に何らかの産業的要求に従ったものでもなく、応用とも呼び難い。学問を基礎と応用に分けるという考えは、どちらにも分類されない学問への無知の表出でしかないのである。
加えて、基礎学問という括りを以て、数学と哲学を仲間と見做し、それらに迫っている危機の原因を同一視することも批判したい。数学に関しては所謂実学に押されているという認識でもそう間違っていないかもしれない。しかし、哲学や文学にとって本質的なことはそれではない。今後哲学や文学らしい文学はそれ単独では人間や社会を語り得ないことである。即ち、心理学や文化人類学、経済学等の人間科学、社会科学が発達し、「自分はこう思いました」というレベルで人間や社会を語ることが出来なくなっている。例えばシェイクスピアを引き合いに人間の心や動きを語ったとしても、それは単なる思い込みであるとか、あくまで例外であって多くの場合には人はそうはしないだろうとか、いくらでも否定されてしまう。他にも内田樹とか東浩紀みたいな現代思想系の人が、現実の事象を語る時にしばしば全く関係のない物事と物事の間に関係を妄想し、陰謀論を展開することも例として挙げられる。今や、哲学や文学のみを以て人間や社会を語るのは意味がないどころか、その知名度や肩書によって真に有益な議論を覆い隠してしまい有害なのである。文学や哲学の重要性、価値を人間を知ること等に求めるのは最早不可能だ。そして今後は現実世界の事象を語る時に、哲学や文学は信用されなくなっていくであろう。であるから、哲学は現実世界の事象を扱うのを止め、完全に抽象的な、ないし空想の世界を扱わざるを得ない。しかしそうすると今度はソーカル事件のような問題も起き得る訳で、ではどうすれば哲学や文学が学問として生き残っていけるのか、これが本質的な問題である。これは丁度写真が登場した時に絵画がどう発展すべきか思い悩んだのと同じである。現実世界を映すのなら、哲学や文学より実験やフィールドワークをやる学問の方が絶対に強い訳で、これは真剣に考えねばなるまい。
最後に、特定分野の学問の排斥がもしあるとすれば、それは基礎系学問よりもフィールドワーク系の方が先だということを述べておこう。基礎系の学問は天才ならばポンポン成果を出すことも出来るが、フィールドワークは10年単位の時間が掛かり、かつ天才も凡人と同じ程度の成果しか出せない。産業界や文科省の陰謀無しでも、学術界が自己生成したpublish or perishの論文量産文化の存在だけで死に得る分野なのだ。スモールワールドネットワークのダンカン・ワッツもそれ以降スモールワールド並みの派手な成果を挙げていないのも、フィールドワーク系に移ったかららしいという話もある。社会の圧力で基礎系が迫害されているという話の前に、現に研究が厳しくなっているフィールドワーク系を救うことを主張したらどうなのか。
個人的な印象として、数学系の人はしばしば哲学に夢を見過ぎるように思う。哲学の実体を知ろうとせず、偶像化した「哲学」を自分の主張の都合の良い形に拵えて崇拝している。
2015年8月25日火曜日
理解することと問題が解けることの違い
特に理系の人は、ある理論を理解することと問題集の問題が解けることとを混同しているのではないかという気がする。実際にはこれらは別であるのに、それを認識する人は稀というか。
何故こんなことを言い出すのかと言えば、問題が解けるようになって理論を理解したと思っても、その理論を使って現実の事象を説明出来る人は意外に少ないと感じるからである。現実の事象と結び付かずに単なる論理操作として「理解」しているのみだと、社会科学では特にそうだと思うが、容易にダブルスタンダードの誤りに陥る。そこで整合性を取らなければならないと気付くには、現実と一体となった形での理解が必要なのかなと。また、問題集の問題になる、試験に出るような部分はよく定式化された部分だけであって、どういう思索を経て定式化されたのか、その定式化の欠点や例外はどこか、ということにも無頓着になり易い。
そもそも問題集の問題を解く為に勉強している訳でもないし。例えばε-δ論法だって、問題を解くことが本義ではなく、例えば複素関数論で微分可能性とコーシー・リーマンの方程式の関係を証明する等の、更なる学問領域の発展・拡張とかに使われるべきものだし。試験の専門家でなければ、複素関数論でε-δ論法が登場したときに理解出来ればそれで十分であり、問題集の問題を解ける必要はないんじゃないか。
どうして今になってこんなことを言い出すのかと言うと、友人が「自慰行為は単なる消費だ」というようなことを言ったので、消費があるなら生産や分配もある筈だとマクロ経済的に考えたからである。この場合だと、人間一人からなる系で、生産されたのは快楽を感じさせる電気信号であり、それらが行為者に全て分配され、行為者がその全部を消費して効用を得たと。こんな一見馬鹿馬鹿しい現象も見ようと思えば日常的でない観点からも見ることが出来るのだなと実感し、どんなものに対しても物の見方を提供出来るポテンシャルが学問にはあり、それを引き出せるかが理解なのかなあということである。
何故こんなことを言い出すのかと言えば、問題が解けるようになって理論を理解したと思っても、その理論を使って現実の事象を説明出来る人は意外に少ないと感じるからである。現実の事象と結び付かずに単なる論理操作として「理解」しているのみだと、社会科学では特にそうだと思うが、容易にダブルスタンダードの誤りに陥る。そこで整合性を取らなければならないと気付くには、現実と一体となった形での理解が必要なのかなと。また、問題集の問題になる、試験に出るような部分はよく定式化された部分だけであって、どういう思索を経て定式化されたのか、その定式化の欠点や例外はどこか、ということにも無頓着になり易い。
そもそも問題集の問題を解く為に勉強している訳でもないし。例えばε-δ論法だって、問題を解くことが本義ではなく、例えば複素関数論で微分可能性とコーシー・リーマンの方程式の関係を証明する等の、更なる学問領域の発展・拡張とかに使われるべきものだし。試験の専門家でなければ、複素関数論でε-δ論法が登場したときに理解出来ればそれで十分であり、問題集の問題を解ける必要はないんじゃないか。
どうして今になってこんなことを言い出すのかと言うと、友人が「自慰行為は単なる消費だ」というようなことを言ったので、消費があるなら生産や分配もある筈だとマクロ経済的に考えたからである。この場合だと、人間一人からなる系で、生産されたのは快楽を感じさせる電気信号であり、それらが行為者に全て分配され、行為者がその全部を消費して効用を得たと。こんな一見馬鹿馬鹿しい現象も見ようと思えば日常的でない観点からも見ることが出来るのだなと実感し、どんなものに対しても物の見方を提供出来るポテンシャルが学問にはあり、それを引き出せるかが理解なのかなあということである。
2015年8月2日日曜日
見えない因果関係と不都合な人間
社会や政治経済を語ることは、それが一国民、有権者の立場であれ、社会現象を研究する研究者の立場であれ、昨今極めて困難である。その理由は根本的には間違った形での自然科学の発想の流用であり、具体的には見えない因果関係の無視、結論に合わせて人間の性質を都合よく構成することである。これらによって、何らかのイデオロギーに基づいた任意の結論を導くロジックが、その内容の如何に関わらず、学問的権威を伴って生産され続けている。これは学問の自壊であるだけでなく、特定の知識や論理を持つ人の発言力を不当に高め、かつ特段の責任を要求しないものであるから、民主主義の存続に関わるであろう。本論説では、その現状分析と、不完全ながらも解決策の提案を行いたい。
自然科学においては、ある変数の影響が何に対して作用するのか明確に分離する為に、観察や実験においてはある一つの条件のみを変え、その他の要素は全て同じになるように設定した系同士を比較する。これ自体は極めて全うであり、非難されることではない。この手法の開発により、自然科学は発達し、今日の文明社会を築き上げたのは疑いようのない事実である。しかしながら、社会現象においては――例えばマンション自治会に関する法律だとか、ごく小さいものの変更を除いて――たった一つの条件だけが変わる、即ち、他の要素は変化しないのだということを要求することは、極めて強い要請である。人間は複雑な思考過程を持ち、加えて他の人間や周囲の環境に対して学習し、変化していくのであるから、一つの条件を変更して他の条件が同じということはまずあり得ない。であるにも関わらず、多くの人は文化や社会制度の変化を語るとき、「ああすればこうなるはずだ、だからこの変化は良い」といった簡単なロジックを使う。無意識のうちに、隠れた変数も同時に変化することを見落としている。尤も、人間の認知は有限であるから、全ての要素の変化を追うことは出来ないし、それ以前にそれら要素を不足なくピックアップすることは不可能である。加えて、隠れた変化を無限に言い続ければ単なる妄想であり、そのようなありもしないことを論じることには一切価値が無いであろう。しかしながら、隠れたものがあるということを忘れ――ないし、不明確なものは学問的に不純であると口実を作り――自分が導きたい結論を導く為に都合の悪い変化を意図的に見落とすのは不誠実である。特に、学問研究であり、少しでも政策に影響を与えるものであるなら、民主主義社会と有権者に対する背信であろう。国民が一票を投じる単なる有権者以上の政治権力を学者に対して認めるのは、望む結果をもたらすであろう方策を自分以上に知っていると信じているからである。学者が嘘を吐く、ましてや学者個人の要望を国民のそれより優先して叶える為に偽るということは想定していない。従って、学者は自分の力の及ぶ範囲で誠実でなければならない。閑話休題。では、隠れた因果関係を無視していると思われる例を一つ挙げよう。尤も、「隠れた因果関係を無視している」というのも、私の主観から見てのことであり、それをどう実証し、定量的に評価するか良い指標は無いのであるが。女性の社会進出に関して、あるデータがある。曰く、都道府県毎に女性の働いている割合と出生率の値を取ると、そこには正の相関があるという。そして世の中には、このデータを以て「女性の社会進出は出生率を高める。女性の労働促進は、少子化や子育てにマイナスなのではなく、プラスの影響をもたらすのだ」と主張する人がいる。私はこの主張にリアリティを感じることが出来ない。単純に、私個人の経験として、親が忙しくなればなる程あまり構ってもらえなかった気がするし、私もレポートなり何なりやるべき仕事が多くなる程ペットの世話が疎かになっている。では仮に女性の社会進出が出生率を高めないとして、この統計データはどう説明、解釈されるべきなのか。一つには、働いている割合と出生率が共に高いのは都市ではなく地方であり、地方においては大家族で祖父母との同居率が高く、祖父母に子供を預けて女性が働くことが出来るという理屈がある。この理屈が説明する世界観において、そういう女性が就いている仕事は、所謂女性の社会進出を推進したい人の想定する典型的なペルソナ、キャリアウーマンとして男性に劣らずオフィスワークを行うような、これから増えるべきだと彼らが思っている人間像とは程遠い。であるにも関わらず、彼らはバリバリのキャリアウーマンを増やすという目的の為に労働率と出生率のデータを無邪気に使うから、そのような統計データを生成したメカニズムが田舎の特徴にあると考える私のような人間は、何か隠れたものを見落としているのではないかと不信を覚える。ここまで考えてみると、この不信感は根本的に、何故そうなるのかというシナリオに欠けていることに根本的には由来するのではないかと思われてくる。この例で言えば、田舎世界観では祖父母同居の大家族と細々した内職、ないしパートタイムジョブによって統一的に説明されているのに対し、女性の社会進出が兎に角出生率を上げるのだという主張には、結論を導き得るストーリーが無い。これが、「隠れた因果関係を無視している」ということである。では、自分がものを考える時にこれを減らし、出来る限り誠実であるにはどうすれば良いのか。それは、統計データを見た時に、すぐにそれを解釈せずに、その統計的性質を再現出来る数理、ないしエージェントベースモデルを考案することであると今の私は結論付ける。当然、そうしても不完全であることには違いないのであるが、数理モデルないしエージェントベースモデルを考えるということは、その世界観の下で人間がどのように考え、どのような環境が所与のものとして与えられ、どのようなコミュニケーションが為されているのか一つの体系立った認識を作るということであるから、自分がどのようにその認識に至ったのか他の人から理解し易いし、この仮説が正しいかどうか、他の説明より妥当なのかどうかを考える際に何を調査すれば良いのかガイドラインを与えてくれる。現状、これ以上は望むことは出来ないであろう。
さて、「見えない因果関係を無視すること」、即ち、一つのパラメータ、条件の変化が他の条件を変えてしまわないと無意識に思うことによる過ちは、一つの問題を考える時のみ表出するのではない。現実世界は様々な複数の選択肢の集まりであるから、それぞれの問題で最適の選択を行ったからといって、その結果として得られる社会の最終状態が、他の選択肢を選んだ場合に比べて必ず優れているという保証は無い。合成の誤謬である。であるから、政策を考える際にはその案自体の良し悪しだけでなく、他の政策との整合性も考えなければならない、即ち、全体を統括するその人なりの価値判断、倫理体系が必要であるのに、そのことを意識している人は驚く程少ない。例えば、私の周囲の学生に話を聞くと、大抵「政府の無駄な支出に反対の緊縮財政支持、教育には予算を使い大学は無償化すべき、大学院生の就職率が悪いから大学院重点化に反対」という立場ばかり返ってくる。しかし、これらは私から見れば、自明に相互矛盾し、彼らの中には価値観の体系が無い。先ず、政府支出(ここでは主に公共事業を想定する)を減らすとしよう。すると、ケインズ経済学の教えるところによれば、需要が減る訳であるからそれに応えようとする供給も減る、従って、労働者の給料ないし人数が削られ、労働者への分配が少なくなる。さて、ここで大学を無償化するとしよう。すると、大学生のうち貧困層出身の人が増えるであろう。それは、従来では大学に通えなかった層も大学に行こうと入試を受けるようになるからであり、彼らが他の社会階層と大きな差が無く競争をすれば、それ相応に受かることから容易に想像出来るであろう。また、大学生の総数も増える。それは、大学に通うことの費用が下がったのであるから、大学に通おうとする人の総数が増え、かつ定員割れの大学が多数存在することにより、大学という教育サービスの供給がそれに応えることが出来るからである。加えて、定員割れの大学が主に需要増に対して応える訳であるから、増えた大学生の多くは低レベルの大学生がその殆どとなるであろう。ではここで、政府支出削減とこの状況を組み合わせてみよう。これから稼がなければならない貧困層出身の大学生、低レベル故に就職が厳しい大学の学生は増加したが、就職先に関しては求人の数も質も減少している。結果として、就職出来ない大学生の総数を必然的に増加させる。その上、その中において貧困層出身者の割合は今の大学生に占めるそれの割合よりも大きいのだ。いくら大学が無償化しても、大学に通うことのコストはゼロではない。その間の生活費等諸々の費用の他に、大学に通っている間には本格的に働けない、つまり高卒で就職していれば稼げたであろうお金もコストとして存在している。これが機会費用である。さて、大学に行ったことにより却って生活が苦しくなった人の数が増えることを、果たして私の周囲の学生らは肯定するのだろうか。「社会においてお金を稼ぐという形では直接役には立たなくても、深く勉強をした人物が増えることは公共の利益になる」等の主張を、堂々と主張するであろうか。いや、出来まい。もしそれが可能であるのならば、何故大学院の定員を増やす大学院重点化に反対するのか。本気で学問が重要と思うのならば、仮令就職が無くとも大学院を肯定すべきであるが、彼らはそれを否定するのだ。であるならば、どうして良い就職先を得られない大学生を増加させる政策を支持出来ようか、いや出来まい。結論として、この例が示しているのは、公共事業削減、大学無償化等の個別では人気のある政策が、それらを同時に実施すると全体としては、却って一般に好ましくないと思われている結果を社会にもたらすということである。このようなコーディネートの問題を考えるには、自分にとってどういう社会が望ましいのか、統一的世界観を持つことが必要である。全体として何を実現したいのかを深く考えないから、個々のテーマに対して一見良さそうに見える選択肢を選ぶことしか出来ず、結局どうなるのか考えることが出来ないのだ。もっと悪いことに、彼らは社会を見るメンタルモデルが先述のように統一性を欠いた誤ったものであるから、自分の選択がもたらした悪い結果が何に由来するのか正しく把握することが出来ず、自分の選択肢がもっと強く徹底されれば望む結果に近付くのだと思い込み、失敗を修正することが出来ない。より一層失敗することに精を出すことになる。これを回避するには、折りに触れて自分の持っている道徳感覚や政治的主張等を振り返り、それらの間に矛盾は無いか検証し、もし無いようであればそれらの考えを統一的に説明出来る世界観とは何かを考え、もし矛盾があるのであれば、何故自分がある問題と別の問題で異なる態度を取りたがっているのか、自分個人の善悪の感覚に立ち戻って考えることが必要であろう。そういう倫理観は感覚的なところから湧き出しているのも事実であるが、感覚的なものに対しても論理的に整合性を追求していくことは必要である。自分の善に対して素直になってしまっては、善意の下に人を殺す浅間山荘やポルポトになりかねない。
ここまで、一つないし複数の問題に対して、一つの条件を変えたところで他の条件は変わらない、都合良い結果がきっと得られるだろうと思い込むことの危うさを述べてきた。次に、そのように都合良く考える場合に多々見られる、現実の人間に対する無感覚を述べようと思う。それは実際に行うであろう人間の思考や行動ではなく、自説を成り立たせる為にモデルにおける人間の思考や行動を都合良く決めてしまうことである。一つの条件を変えても他の条件は変わらないだろうと思うというのも、根本的には一つの条件を変えても人間の反応はその条件に関する事柄のみ変化し、その他のことに関しては変化以後も行動を変えないだろうという考えから生じている。しかし、実際の社会はそうではない。一つの条件の変化に応じて人の動きが変わり、それによって他の条件に影響が波及して変化し、玉突き的に変動が広がっていく。そのようなフィードバックで動くシステムとしての複雑系が、社会ダイナミクスの真の姿である。特に難しく、奥深いのは、人間は学習して変化していく生き物だということである。仮に最終的には同じ状態になろうとも、そこに至る過程が異なるのであれば、異なることを経験し学習してきているのであるから、人間は異なる反応を見せる。同じ刺激に対しては常に同じ反応を返す物理系との違いがそこにある。個人の自由を高めることが必ず全体の利益にもなるというネオリベラリズムの主張がしばしば経済学を利用し、それが数理的には正しいにも関わらず何故か現実では上手く機能しないのも、彼らが利用するところの「経済学」は、人間の意思決定を過度に理想化、抽象化した、完全合理性として考えているからである。つまり、自由化という好ましい結論を導き出す為に、完全合理性という非現実的な人間像が恣意的に構成されている。確かに、如何なる人間もモデルを構築する上で必ず恣意的な示したい目標があり、従って彼の生み出す人間像が現実のそれから乖離することは避けられない。とはいえ、自分が恣意的であり、決して中立ではないということには自覚的である必要がある。特に、数学で社会の挙動を描画しようとすると、どうしてもモデルを単純化せざるを得ず、「それっぽい」仮定を多々置きがちであるので、注意を要する。
最後に、軽くではあるが、このように社会を考える者、特に学者が社会に対してどう向き合うべきなのか、現段階の荒削りな私案を書こうと思う。社会科学を研究している者の多くは、単なる知的好奇心や研究能力、社会科学の知見だけでなく、現在の社会に対して何らかの疑問、或いは「こうすればもっと良くなるんじゃないか」という理想を、意識せずとも少なからず持っていると私は思っている。即ち、研究者は潜在的には社会改善の意志と能力の双方を持った層であると言える。であるから、その知識を社会に対して還元することは必要であろう。公衆は社会の望ましい在り方について議論することは出来ても、その実現方法に関しては知ることが出来ないであろうから、これは一般の国民に対しても望ましいものであると思われる。しかし、ある種の社会運動に見られるような現状の、学者個人が勝手に政治に対して声を挙げるのは望ましくなく、寧ろ有害である。というのも、本人が意識せざるか否かを問わず、「学者」という肩書そのものが社会に対して強く影響する為、一個人としての発言をしただけのつもりであっても、そうは認められない、特にその学者と意見を異にする人は納得出来ないだろうからである。一個人の発言、投票というのが民主主義社会における一個人としての責任の及ぶ範囲であるが、学者が自分を一個人であると思って意思表明をすると、実際には一個人以上の影響力を行使しているにも関わらず、彼本人の認識では一個人として動いただけだと思っているから、それ以上の責任を引き受けようとしない。これは丁度、天皇が政治や社会に対する意見を言わないのと同様である。影響力の大きな個人は、最早個人として活動を許可されるべきではなく、ある程度公的な形で人より多くの責任を受け入れることを保証し、その上で大きな影響力を行使すべきである。原子力問題があれ程荒れるのも、根本的には「専門家は普段は意思決定において一般人よりも大きな影響力を持っているのに、原子力が大きな社会問題になった時にどのように責任を引き受けるのか、意思決定において公衆とどの程度に権限を分配するべきなのか」が問われているからなのであろうと思われる。工学者の立場からすれば、「政策は民主主義で決めるべきであるし、意思決定の責任問題に巻き込まれれば私生活や研究にも差障りが出るし、我々はリスクとリターンを提示するだけだ。あくまで意思決定をするのは社会である」のだろうと思うが、公衆が望む豊かな生活を叶える上で、必然的に社会のエスタブリッシュメントは原子力を導入せざるを得ず、公衆は意思決定をしたのだという意識が無い。そのエスタブリッシュメントに情報提供し、意見交換をした段階で公衆からは政策に関わったと見做される。公衆全てが賢くなり、「自分の選択で受け入れた」ということを自覚するのが困難である以上、専門家は専門家自身が意思決定に関わらざるを得ないことを自覚し、権限と責任を公衆に対してある程度可視化することが必要なのかもしれない。私は原子力に関わっている人が事故を受けて今後どうするか、安全性や利便性の向上に真摯に取り組んでいることを知っているが、それは一部の人にしか知られていないように感じられる。社会科学者が社会について発言する時も、どういう影響をどの程度与えるから自分はこれだけの責任を負いますよということを、どう分配すれば公衆が納得し、社会的に受容出来るか議論が必要であろう。しかし公衆、一般の有権者の側にも、意思決定の責任意識が必要だと私は思う。少なくとも大学生以上の知的階層には必須である。即ち、社会に何らかの要求を持つ時に、その要求されるものを維持する為に何らかのコストを支払う必要があり、一見突然降って湧いたように見えるリスクやコストも、実は自分の意思決定に伴う必然だったと受け入れる覚悟である。例として原子力を挙げると、もしそれをすぐさま無くそうとすれば火力の発電量を増やす為に大量に化石燃料を輸入し、かつ火力発電所のメンテナンスを減らすか、ソーラーや風力の為に多くの森林を切り払って土地を作り、かつそれらの廃棄の為の工場設備を作るか、地熱の為に地下重金属のリスクを受け入れるか、また発電量の減少に伴って日本の産業が衰退し、労働環境と生活水準の低下を受け入れるか、またはこれらの混合を呑まなければならない。また、原子力産業の衰退に伴って、将来の高速増殖炉、核融合炉等の実現も恐らく諦めることになる。その場合、他国がこれらを商用化した後に技術やら特許やらで色々派生する影響もあるだろう。これらのカウンターリスクを負担する意志と、その試算が無ければ、仮令原子力それ自体に関してどう思っていようとも、有権者として責任を負わなければならない。望む結果を維持する為には、何らかのコストが要る。民主主義国家における公共の意識とは、このように政治的意思決定について責任を負う覚悟に他ならない。民主主義国家の維持存続には、このような有権者の公共性に関する教育が必要なのかもしれない。
2015年6月20日土曜日
無知の越境
「現状の言論の自由は、人類が延々と蓄積、発展させてきた学問知に対する酷い侮蔑の上に成り立っている」という認識が必要である。というのも、長年の学術研究によって自明に否定された主張が、一般市民によって何度でも蒸し返され、そのナンセンスな主張も一つの対等な意見として扱われるからである。「賛成意見も反対意見も載せる、両論併記の姿勢が公平でかつ重要」というナイーブな価値観が、これに拍車を掛ける。そして人間の積み重ねてきた知を毀損しているという事実に、主張している人自身は気付かないのだ。これは学問の細分化と専門主義により、そもそもそのような問題を遥か以前から考えてきた歴史を知らないからである。この問題を放置し続ければ、一般人の望む政策が実現不可能、ないし相互に矛盾するものばかりとなり、民主主義社会は崩壊するより他あるまい。これを防止する為には、学問世界の全体像を描け、求められる問題に応じて何を学ぶべきか過不足なく答えられる教養人が、一定割合以上社会に必要である。その教養人の育成が可能な組織は、大学以外にはない。しかし現状の大学のカリキュラムは研究の後継者候補を作ることを目的に組まれている。一つの専門分野にのみ博識な野蛮人を作るばかりである。また所謂教養過程の教育も、一見多彩な授業科目を用意しているように見えて実際にはそのような狭いタコツボの入り口を複数提示するだけなのだから、学問世界の全体像は分からず、教養人の育成には繋がっていないことは明らかである。大学は、人類社会の存続と維持、発展の為、教養教育の在り方を真剣に希求しなければならない。そしていみじくも大学で学んだ者は、周囲への啓蒙を怠ってはならない。間違ってもある問題について、それを扱う分野を学ばずに語る“無知の越境”をしてはならない。
偽医療や根拠なき民間療法、オカルトじみた健康食品の台頭により医学の価値は何なのか突き上げを行わんとする人々や、長年インフラを支えてきたこと、また各種放射線の応用技術は滅菌や材料加工、化学反応に使われてきた恩恵を忘れ、かつ被曝量やその影響を過大視し起こりえない事象を主張する人々を見て、このようなことは今後更に他の分野にも拡大し政治を乱していくことを危惧してこの文章を著した。「民衆による学問の軽視と危機などあり得ない」と言う人もいるかもしれないが、既に起こっている現実がある。日本の高速増殖炉が止められているのがその一つである。学問にとって最大の抑圧者は、最早政府ではなく一般人と政治的扇動者の暴走にあるというのが私の認識である。これらを放置すれば「天然塩は健康に良いけれど、機械で加工されたものは危険だ」とか「白い食べ物は兎に角身体に悪い」だとか、誤った信念が社会を支配することになるだろう。そのとき、当該の分野、例えば医学などは死ぬ。
偽医療や根拠なき民間療法、オカルトじみた健康食品の台頭により医学の価値は何なのか突き上げを行わんとする人々や、長年インフラを支えてきたこと、また各種放射線の応用技術は滅菌や材料加工、化学反応に使われてきた恩恵を忘れ、かつ被曝量やその影響を過大視し起こりえない事象を主張する人々を見て、このようなことは今後更に他の分野にも拡大し政治を乱していくことを危惧してこの文章を著した。「民衆による学問の軽視と危機などあり得ない」と言う人もいるかもしれないが、既に起こっている現実がある。日本の高速増殖炉が止められているのがその一つである。学問にとって最大の抑圧者は、最早政府ではなく一般人と政治的扇動者の暴走にあるというのが私の認識である。これらを放置すれば「天然塩は健康に良いけれど、機械で加工されたものは危険だ」とか「白い食べ物は兎に角身体に悪い」だとか、誤った信念が社会を支配することになるだろう。そのとき、当該の分野、例えば医学などは死ぬ。
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