2015年8月25日火曜日

理解することと問題が解けることの違い

 特に理系の人は、ある理論を理解することと問題集の問題が解けることとを混同しているのではないかという気がする。実際にはこれらは別であるのに、それを認識する人は稀というか。
 何故こんなことを言い出すのかと言えば、問題が解けるようになって理論を理解したと思っても、その理論を使って現実の事象を説明出来る人は意外に少ないと感じるからである。現実の事象と結び付かずに単なる論理操作として「理解」しているのみだと、社会科学では特にそうだと思うが、容易にダブルスタンダードの誤りに陥る。そこで整合性を取らなければならないと気付くには、現実と一体となった形での理解が必要なのかなと。また、問題集の問題になる、試験に出るような部分はよく定式化された部分だけであって、どういう思索を経て定式化されたのか、その定式化の欠点や例外はどこか、ということにも無頓着になり易い。
 そもそも問題集の問題を解く為に勉強している訳でもないし。例えばε-δ論法だって、問題を解くことが本義ではなく、例えば複素関数論で微分可能性とコーシー・リーマンの方程式の関係を証明する等の、更なる学問領域の発展・拡張とかに使われるべきものだし。試験の専門家でなければ、複素関数論でε-δ論法が登場したときに理解出来ればそれで十分であり、問題集の問題を解ける必要はないんじゃないか。
 どうして今になってこんなことを言い出すのかと言うと、友人が「自慰行為は単なる消費だ」というようなことを言ったので、消費があるなら生産や分配もある筈だとマクロ経済的に考えたからである。この場合だと、人間一人からなる系で、生産されたのは快楽を感じさせる電気信号であり、それらが行為者に全て分配され、行為者がその全部を消費して効用を得たと。こんな一見馬鹿馬鹿しい現象も見ようと思えば日常的でない観点からも見ることが出来るのだなと実感し、どんなものに対しても物の見方を提供出来るポテンシャルが学問にはあり、それを引き出せるかが理解なのかなあということである。

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