2016年2月18日木曜日

エージェントベースモデルの大まかな過去と未来の展望

(注)字数制限のある短いエッセイとして書いたので事実に対して適宜簡略化・誇張が入っています。

  エージェントベースモデル(ABM)とは、コンピュータシミュレーションを使った社会科学の研究手法の一つである。周囲の状況を認知して意思決定し、行動して周囲に影響を及ぼす主体――エージェント――を多数仮想世界に作り、それらの集合として社会を構築する。これは叙述、数学に続く社会の第三の記述法である。
  ABMは従来手法では検証出来なかった疑問に応えることが出来る。例えば叙述的方法では「ある因果を想定するとAだが、別の原因を考えるとBである」というように曖昧性が強く、どの説がより実像に近いのか、客観的決定が難しい。対して数学を用いると、Aをもたらす原因とBをもたらす原因の重みを比較することが出来、客観的な判断をし易くなる。しかし数学では、各個人が異なった選好や行動基準を持つような、複雑な状況を表現することが難しく、これは今までは叙述に頼らざるを得なかった。ABMを用いると、数学では難しかった多様な個人を扱いつつ、かつ叙述よりも原因と結果の関係を明確にすることが出来る。
  ここで、人間の心理や行動は極めて複雑であるから、それを果たしてコンピュータプログラムに落とし込めるのか?という疑問を持つかもしれない。しかし心配は無用だ。特定の社会現象を再現するのに、人間の持つ全ての要素は要求されない。モデルにはその現象にとって本質的に重要だと思われる少数の要素を組み込むだけで良い。
  それが可能だと分かっているのは、複雑系科学の遺産である。複雑系科学は多数の構成要素が相互作用する場合には、そのルールが極めて単純であっても、予測出来ない程複雑でかつしばしば現実の何らかの現象を模しているかのような挙動を示し得るということを明らかにした。
  ではABMは、今後社会科学をどのように変え得るであろうか。既存の理論を全て置き換えてしまうのか。はたまた傍流に留まり、消えてしまうのか。恐らくそのどちらでもないだろうが、ABMのインパクトは分野毎に違うと思われるので、以下取り敢えず経済分野について考えてみよう。
  ABMを単なる他の手法の補完としてではなく、本質的に別種の問題意識を持って使う分野として、進化経済学や経済物理がある。このうち前者は経済学には新古典派に代わる新しいパラダイムが必要であり、その候補の一つが我々であると主張している。彼らの主張では、新古典派には高い表現力があるから個々のアノマリーは説明出来るが、均衡と最適化を柱とするが故に、理論としての一貫性を作る中で構造的にドグマとパラドックスを生み出すと指摘する。そしてそれを乗り越える手段としてABMを使うのである。
  しかし進化経済学によるパラダイムシフトはなり得るのか?それはまだ難しいのではないかという気がする。例えばケインズ革命を考えてみる。需要不足は起き得ないとするリカードの流れを組む新古典派に対しケインズは反論し、後世に学派を形成した。しかし需要不足の可能性はマルサスによって過去に指摘されていたのであり、では何故ケインズが言うまで受け入れられなかったのか。ケインズ曰く、マルサスは観察事実を指摘するだけで理論体系を提示出来なかったからだという。体系が無ければ考察がそれ以上進まず、詳細な検討を受けられないからパラダイムとして成長しないのであろう。ABMは学習や進化を扱える一方で、それらをどのように規定するかに決まった規則が無く、反証可能性に薄い。その場その場で異なる方法を使って事実を説明するだけでは、将来に対する予言がはっきりした形で行えない。仮令多くの間違いを含むとも、常に同じ原理で説明を行えば白黒付けられる予言を行える。新古典派の強みはそこにあり、過去のマルサスの事例を見るに進化経済学が主流となるのは難しいのではないかと予想する。
  予言を時に諦め、実証から言える事実のみを言うべきだという主義ならば経済物理だが、その主義は社会科学ではなく自然科学のそれであろう。