2015年8月30日日曜日

無駄をなくすと、無駄は減るのか

 世間では無駄をなくすのは常に良いことだとされているが、本当だろうか。寧ろ、多くの場合には無駄をなくしたつもりになっていても実際には減っておらず、他の人に押し付けただけだったりするのではないか。例えば、IT企業において「エクセルスクショ貼り」は完全な無駄と考えられているが、果たしてそうだろうか。もし、こういう誰でも出来る作業をなくしたとすると、職場で求められる技術レベルが上がり、失職する人が出てくるだろう。再就職が難しい場合、彼らは生活保護なり何なりで養わなければならないが、それは企業が「無駄」を持ちながら彼らに給料を払って養うのと、果たしてどちらがマシなのか。
 簡単な数理モデルを導入してみる。一人が生きるのに必要な資源を1としよう。最初に会社には100人の人がいて、100生産し、各社員は1の給料を受け取っているとする。この会社が、働きの悪い社員をリストラして効率化したとする。今度は社員50人、生産は75とする。すると、会社にとって生産の効率性は1.5倍になっている。利潤という点で言えば、例えば社員の給料を1から1.2に増やしたとすると、会社の手元に残る資源は最初の状態より15増えている。会社からリストラされる筈のない優秀な社員も会社の持ち主も、みんな最初より多くの資源を手にするから、この効率化にはほぼ必ず賛同することであろう。
 これだけならハッピーかもしれないが、会社を離れて社会全体を見てみると、リストラされた50人も養わなければならない。すると、効率化はしても生産の総量が減っているこの変化は、社会を貧しくする方向に向かっていることは明らかである。彼らが再就職出来れば問題ないのだが、全ての会社が「生産性を落とすような劣った労働者は雇わない」方針であるならば、再就職は困難であろう。つまり、局所的に効率化した結果、全体としては逆に悪化するのだ。
 このような論理はエクセルスクショ貼りだけでなく、他の事例にも応用出来よう。例えばある会社は家庭用ゲーム市場が衰退したのでその部署を縮小し、元々その部署で働いていたゲームデザイナーらをスポーツジムの清掃員か何かに配置換えしたらしいとのことでオタクから叩かれていたが、そのバッシングは本当に妥当だろうか?再就職が難しい人を雇用し、何らかの生産活動を行わせ、給料を払っているのだから先述の論理に従うと、これは善である筈だ。リストラするよりもずっと良い。そもそも、本人がその仕事よりももっと生産量の高い職場で働けるとするならば、そっちの会社へ転職する筈である(個人の生産量∝給料という近似を入れた)から、ジムで働き続けていること自体が、今の社会の中で彼らにとって一番生産量の多い職場がジムであることを表している。彼らをリストラしたところで、彼ら自身はもっと給料が低い会社で働かなければならないし、社会全体で見ても、社会全体の生産量は落ちる筈なのだ。国民全員を食わせていかなければならない現代の国家では、個々の企業の生産性ではなく、国全体での生産量を見るべきである。

2015年8月29日土曜日

労働の神話

 世間には労働に関して陰謀論的な神話が流布しているようなので、それを否定するような簡単なメモを記す。

①政府は教育水準を意図的に下げて愚民化政策を実施し、企業の従順な奴隷を作ろうとしている

 そんな訳はない。そもそも、この議論の前提には「沢山勉強した賢い人は、企業に搾取されない」という考えがあるが、そもそもそれが間違っているように思う。何故ならば、主張に対する反例が多々ある。例えば、韓国は日本よりも明らかに教育熱心で、大学受験を国家全体を挙げて支援しているが、そんな秀才たちがサムスン等に就職すると、厳しい労働条件の下でこき使われている。これを見るに、勉強を頑張ったからと言って企業におとなしく従わなくて済むなんていうことは全くないと考えるのが自然であろう。それどころか、これまでずっと勉強してきて漸くサムスン等の一流企業に就職出来たのだから、辞めてしまっては全てが無駄になると考え、より一層企業に対して忠実となる可能性すら考えられるのではないか。ゴールドマンサックスには社員ではなくインターンシップ生(!!)の過労死まであるし、学問が人間を自由にするというような考えは先進国では最早成り立たないのではないか。

②全ての仕事が機械化・自動化し、ベーシックインカム等により人間は働く必要がなくなる

 実現しないだろうし、もし仮に最終的にそうなるにしても、移行期間において大きな社会的混乱が起きるので、ユートピアではないだろうというのが私の考え。働く必要のある人の数が少なくなっても、一部の仕事は人間がやる必要があるだろうし、それらの仕事の中には社会秩序の維持に不可欠なものもある筈だ。それらは、必ず誰かにやってもらわなければならない。その時、どれくらいの賃金で働いてもらえば成り立つのか。働く必要のない社会では、働かなくても生活出来るだけのお金を配布している訳であるから、これらの労働者に支払わなければならないお金はかなりの高額になるのではないか。そうなると、結局インフレになり、働かなくてもいい社会であるという前提が崩れるのではないかという気がする。若しくは、不労階級と労働階級に分離し、どちらかがもう一方を差別する社会の到来かもしれない。歴史的にも、嫌な仕事を被差別階級に押し付ける事例はいくつか存在した訳であるし。また、機械化や自動化にすごく熱心な企業であるAmazonが恐ろしく厳しい労働環境だということを考えると、機械化や自動化で便利になる人もいるが、その機械やサービスを提供する側は割と地獄なんじゃないかなって。

③教育を強化すると低所得者層が経済的に成功する可能性が上がる

 ここで言う教育の強化とは、主に大学進学率の向上みたいなものをイメージしている。確かに、高度な知識や技能を要する知的職業は存在するのだが、その絶対数は少なく、輩出される大学生もしくは院生の数よりも少ない。それにあぶれた層は所謂普通のホワイトカラーに行くのだが、それらでは何ら特別な能力を要求されておらず、大卒者がそこへ行けるのはシグナリング効果に過ぎない。大学に行くことによる所得向上効果の大部分がシグナリング効果と言えよう。すると、低所得者層を優先的に大学に入れ割合を上げる等しない限り、そのホワイトカラーの職の雇用出来る人数が限られている以上、大学に行きホワイトカラーになってお金を稼ぐ低所得者層出身者が増えるということはない。そもそも極論、全員が大学に行くようになれば、低所得者層が大学に行ったからといって豊かになれるという訳ではない。限られたパイをシグナリング効果で奪い合うゲームである限りは。寧ろ、何らかの事情で大学に行けない人は、今以上の苦境になるであろう。皆大学に行くのが当然であるから、大学に行かなかったのは何らかの欠陥がその人にあるに違いないと考えられて。日本以上に大学進学熱が高い韓国において、大学に行けなかった人はどれだけ苦しいのか考えてみるとこういう結論が出てもおかしくないのではないかという気がするけれども。
 そもそも、階層間移動の容易性って救貧において最優先されることであろうか。それよりも、どんな職業に就いたとしても、普通に生きることが出来るお金を稼げる方が大事なのではないか。「いつでも大金持ちになれる可能性が十分あるけど、貧しい人は餓死寸前」な社会よりかは、「階層はなかなか変わらないけど、餓死はあり得ない社会」の方がマシではないか。であるから、救貧には大学教育の充実よりも公共事業による雇用増加の方が良いのではないかと思うのだけれど。

2015年8月27日木曜日

SSC輪読会【6】【7】

 SSC輪読会の第6、7回は11章(Combining Mathmatical and Simulation Approach to Understand the Dynamics of Computer Models)の補足ということで、ABM(agent based model)の解析解の導出を、テキストから離れて具体的なモデルで行います。題材はminority gameの臨界点です。その計算過程を詳細に記したpdfをここに上げます。間違い等ありましたらご連絡ください。

https://db.tt/a9jvtsiY

2015年8月25日火曜日

理解することと問題が解けることの違い

 特に理系の人は、ある理論を理解することと問題集の問題が解けることとを混同しているのではないかという気がする。実際にはこれらは別であるのに、それを認識する人は稀というか。
 何故こんなことを言い出すのかと言えば、問題が解けるようになって理論を理解したと思っても、その理論を使って現実の事象を説明出来る人は意外に少ないと感じるからである。現実の事象と結び付かずに単なる論理操作として「理解」しているのみだと、社会科学では特にそうだと思うが、容易にダブルスタンダードの誤りに陥る。そこで整合性を取らなければならないと気付くには、現実と一体となった形での理解が必要なのかなと。また、問題集の問題になる、試験に出るような部分はよく定式化された部分だけであって、どういう思索を経て定式化されたのか、その定式化の欠点や例外はどこか、ということにも無頓着になり易い。
 そもそも問題集の問題を解く為に勉強している訳でもないし。例えばε-δ論法だって、問題を解くことが本義ではなく、例えば複素関数論で微分可能性とコーシー・リーマンの方程式の関係を証明する等の、更なる学問領域の発展・拡張とかに使われるべきものだし。試験の専門家でなければ、複素関数論でε-δ論法が登場したときに理解出来ればそれで十分であり、問題集の問題を解ける必要はないんじゃないか。
 どうして今になってこんなことを言い出すのかと言うと、友人が「自慰行為は単なる消費だ」というようなことを言ったので、消費があるなら生産や分配もある筈だとマクロ経済的に考えたからである。この場合だと、人間一人からなる系で、生産されたのは快楽を感じさせる電気信号であり、それらが行為者に全て分配され、行為者がその全部を消費して効用を得たと。こんな一見馬鹿馬鹿しい現象も見ようと思えば日常的でない観点からも見ることが出来るのだなと実感し、どんなものに対しても物の見方を提供出来るポテンシャルが学問にはあり、それを引き出せるかが理解なのかなあということである。

2015年8月18日火曜日

自衛と侵略と善悪について

 WW2における大日本帝国の行動について語られるとき、しばしば自衛か侵略かが話題となる。大抵の場合、右派は自衛を、左派は侵略を主張し、そこから善悪を導出しようとする。しかし私に言わせれば、それはどちらもナンセンスである。というのも、両者の立場は共に「自衛=善、侵略=悪」という単純な二分論に基づいていて、悪の自衛ないし善の侵略の可能性を排除しているからである。このように論じる理由は、決して、巷によくあるような「自衛の名の下に数多くの侵略が行われてきた」からではない。この論法においても、本質的には「自衛=善、侵略=悪」という構図に囚われている。私が懸念するのは、関東大震災での朝鮮人虐殺や原発事故後の福島県への風評被害等、「行為者本人の目線からは紛れもなく自衛だが、外部から判断すると不必要かつ過激な攻撃であり、悪である」行為である。このような行為を抑止するには、理想的には正しい情報と冷静な判断力を持てということになりそうだが、それは実現性が薄い。何故ならば本人たちは自分が正しいと確信してしまっているからだ。そこで、私の対案として、「悪の自衛行為」の存在を提案する。自衛行為であっても、無条件で肯定はしないということである。過剰防衛との違いは、「やり過ぎたら悪」なのではなく、「やり過ぎなくても本質的に悪」の場合が存在すると主張する点である。
 本質的に悪の自衛行為の例として、次のような状況を考えてみよう。ある国Aが極秘に核開発をしている。その情報を掴んだ別の国BがAに先制攻撃を仕掛けた。これに対しAは反撃したと。この場合、先に攻撃したのはBであり、Aは反撃しただけなのであるから自衛であろう。しかし、善悪という観点では恐らくAが悪になるのではないか。さて、この例で言いたかったのは「悪の自衛」が概念的に存在することだけであって、それ以上はない。このようなシンプルなロジックがそのまま関東大震災や原発事故に応用出来るという訳ではないが、「自衛=善」という視点は壊れたのではないか。
 私の主張としては、以前は自衛はそれ自体暴走する可能性があるのに、生存欲求を否定したくないあまりに自衛を善、ないし少なくとも否定出来ないものと今までは見做してきた。しかしそれは自衛行為による被害者を黙殺することに繋がりかねないことである。自衛は悪ではないという免罪符の下の暴走を防ぐために、自衛も悪になり得るという観念を一般化するべきであると。ただしここで難しいのは、どういう自衛が善でどういうのが悪なのか、結果論的にしか評価出来ないことである。平家は源頼朝を殺さなかったが故に滅びたが、もし頼朝を殺して平家が生き残っていれば、後世の人からはやり過ぎであったと言われるのではないか。つまり、行為している最中には恐らく善悪を把握することなど出来ないだろうと。だがしかし、自衛に全くの歯止めが無いのは不合理であるので、心理的な壁として機能するよう、「悪の自衛行為」の存在は心に留めておいて欲しいのである。

人間の自衛感情の強さを実感した理由を以下に示す

関東大震災での朝鮮人虐殺の背景要因として、「朝鮮人を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということがあると中学の国語では習ったが、福島県への風評被害は「福島県民を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということはないのだから、要因としてあまり本質ではないと思われる。自衛だから仕方ないんだ」「自分の身を守れるならなんだってやる」という自衛肯定精神の方が本質であろう。

2015年8月8日土曜日

妹様防衛軍

コミケに出すような品質のバージョンを作りました。
ダウンロードは(https://db.tt/hRq8yZ0t)から出来ます。
遊ぶにはXNAのランタイムのインストールが必要です。



以下ReadMeファイルの中身

炎の魔剣で群がる吸血鬼どもを殲滅せよ
最強の吸血鬼ハンターとして、全てを狩るのだ


ルール

 矢印キーで移動
 Zキーでレーヴァテインによる攻撃。どんな奴だろうが耐えられはしない。黒焦げだ
 だが凄まじい反動で、放射中は動きは取れない。油断しないようにな
 レーヴァテインは大技なんでな、そう連発は出来ない。妹様の紋章で現在の余力を伺うことだ
 ENTERキーは時空の魔術。全てはゼロに戻る
 ESCキーは終焉の魔術。世界を終わらせる

 吸血鬼は直接その手で切り裂いて攻撃してくる、触れると大ダメージだ
 しかし奴らも生物体だ、幼体である蝙蝠形態では攻撃力を持たない
 だがその代わり蝙蝠形態は空を飛ぶ。迂闊に振る舞うと包囲されるぜ
 素早い動きに翻弄されず、寧ろこちらから誘導してやれ
 時間と共に奴らは進化する、せいぜい気を付けるんだな
 どうやら奴らは巣をオレンジの魔力でコーティングしているらしい。悪いがどんな刃も通りそうにないな

 攻撃を食らわず、如何にスタイリッシュに戦ったのか評価がスコアとして表示される、高みを目指しな


作者 世外奇人495
作曲者 Nego-tiator
原曲作曲者 ZUN
効果音はザ・マッチメイカァズ(http://osabisi.sakura.ne.jp/m2/)よりお借りしました


幸運を祈るぜ

2015年8月4日火曜日

The Value of Econophysics

This text is written for Marginalia, a magazine published by university students.

“What econophysics means?” I have to answer this question before explaining the value of econophysics because you can’t understand the value of anything if you don’t know it. Evonophysics is a relatively new domain and its researchers come from many different fields, such as physics, economics, engineering, mathematics, information and so on, therefore the definition of it is not explicit. So I propose the objectives of econophysics and define econophysics as a science aiming it. There are, for examples, (1) to find statistical features called stylized facts that come from big data that you couldn’t have got before (big means high frequency or minute detailed, such as 1 nanosecond financial market trading data, all companies transactions relationship, and so on), (2) to describe the mechanism emerging stylized fact by using simple microscopic or mesoscopic model like agent based model (ABM) and (3) to extend the realm of physics to be able to discuss the systems composed of not only particles that always behave same if the condition is the same but also agents that behave differently even if the condition is the same because of agents’ learning, adopting and evolution. 
 The biggest defect of economics is relying too much on mathematics. It means that every economical phenomena should be described by mathematics makes economics unrealistic. Mathematics only deal with perfect deterministic situations or perfect random situations. If you use mathematics in the mixture situations of deterministic and random, you can get only very abstract or trivial conclusions (such as bubbles must crash eventually) and cannot discuss real-worlds problems. To avoid this, economist have made “good-looks” assumptions like people behave in order to maximize his/her utility with perfect rationality and solve economic problems with such assumptions. One of the typical cases of this is efficient market theory (EMH). It says that price movements obey independent Gaussian distribution because people trade stocks based on its theoretical price (fundamental price) determined by the external news such as company’s achievement and external news will come unexpectedly because expected news is taken into account immediately and loses its value. So this statement means that everybody behave rationally and nobody knows the future. It sounds good. However, it cannot explain fat tail, one of the stylized facts that means large fluctuations obey power law distribution and thus occur more frequently than Gaussian. This typical examples are large crashes, such as Wall Street Crash (1929), Black Monday (1987), Lehman Shock (2008) and so on. Gaussian distribution says large crashes never happen, but in reality, it is not the case. In conclusion, what I want to say in this paragraph is that mathematics is useful, but sometimes you idealize problem too much to contain important features in order to solve it mathematically.
 So what we should do solve this problem? Econophysicists uses mainly ideas come from non-equilibrium statistical mechanics, complex systems theory, synergetics. The key is in the mesoscopic level connecting micro and macro because there are no other economics domain dealing with mesoscopic. It is true that one of the EMH defects, perfect rationality is also criticized by behavioral economics that assumes people have bounded rationality, but it is only the microscopic level and not suitable to discuss macroscopic economic phenomena. Then, what is the best way to tackle mesoscopic? I think it is ABM. ABM can realize mesoscopic mechanics by emergence and downward causation. Emergence means interactions among microscopic agents make macroscopic orders or structures. Downward causation is each agent who often has bounded rationality learn from macroscopic environment that are formed by emergence and change the way how to behave. This micro-macro loop is essential because it can generate stable and non-equilibrium states that are often seen in the real world, but traditional economics, such as evolutionary game theory cannot reproduce. Roughly speaking, an equilibrium state is like a ball in a valley. This is stable because if a ball moves, immediately returns the center of a valley. So its state is frozen. In contrast, stable non-equilibrium state is a sand pile. You drop sands, a sand pile emerges and gains its height. Then, the height of a sand pile will go to infinity? This answer is clearly no. Avalanches sometimes occur and the height goes down. So this system is stable not because its state is frozen but because it always moves. Economic phenomena are not frozen, but dynamical so that you can look them as stable non-equilibrium than equilibrium and this is explained by econophysics.
 In conclusion, the value of econophysics is to capture economic phenomena without failing there non-equilibrium features. And what’s more, I expect the development of experimental econophysics established by Ji-Ping Huang. It has a great potential to combine econophysics and laboratory experiments. In Japan, Yu Chen, an associate professor of The University of Tokyo studies it.

2015年8月2日日曜日

見えない因果関係と不都合な人間

  社会や政治経済を語ることは、それが一国民、有権者の立場であれ、社会現象を研究する研究者の立場であれ、昨今極めて困難である。その理由は根本的には間違った形での自然科学の発想の流用であり、具体的には見えない因果関係の無視、結論に合わせて人間の性質を都合よく構成することである。これらによって、何らかのイデオロギーに基づいた任意の結論を導くロジックが、その内容の如何に関わらず、学問的権威を伴って生産され続けている。これは学問の自壊であるだけでなく、特定の知識や論理を持つ人の発言力を不当に高め、かつ特段の責任を要求しないものであるから、民主主義の存続に関わるであろう。本論説では、その現状分析と、不完全ながらも解決策の提案を行いたい。
 自然科学においては、ある変数の影響が何に対して作用するのか明確に分離する為に、観察や実験においてはある一つの条件のみを変え、その他の要素は全て同じになるように設定した系同士を比較する。これ自体は極めて全うであり、非難されることではない。この手法の開発により、自然科学は発達し、今日の文明社会を築き上げたのは疑いようのない事実である。しかしながら、社会現象においては――例えばマンション自治会に関する法律だとか、ごく小さいものの変更を除いて――たった一つの条件だけが変わる、即ち、他の要素は変化しないのだということを要求することは、極めて強い要請である。人間は複雑な思考過程を持ち、加えて他の人間や周囲の環境に対して学習し、変化していくのであるから、一つの条件を変更して他の条件が同じということはまずあり得ない。であるにも関わらず、多くの人は文化や社会制度の変化を語るとき、「ああすればこうなるはずだ、だからこの変化は良い」といった簡単なロジックを使う。無意識のうちに、隠れた変数も同時に変化することを見落としている。尤も、人間の認知は有限であるから、全ての要素の変化を追うことは出来ないし、それ以前にそれら要素を不足なくピックアップすることは不可能である。加えて、隠れた変化を無限に言い続ければ単なる妄想であり、そのようなありもしないことを論じることには一切価値が無いであろう。しかしながら、隠れたものがあるということを忘れ――ないし、不明確なものは学問的に不純であると口実を作り――自分が導きたい結論を導く為に都合の悪い変化を意図的に見落とすのは不誠実である。特に、学問研究であり、少しでも政策に影響を与えるものであるなら、民主主義社会と有権者に対する背信であろう。国民が一票を投じる単なる有権者以上の政治権力を学者に対して認めるのは、望む結果をもたらすであろう方策を自分以上に知っていると信じているからである。学者が嘘を吐く、ましてや学者個人の要望を国民のそれより優先して叶える為に偽るということは想定していない。従って、学者は自分の力の及ぶ範囲で誠実でなければならない。閑話休題。では、隠れた因果関係を無視していると思われる例を一つ挙げよう。尤も、「隠れた因果関係を無視している」というのも、私の主観から見てのことであり、それをどう実証し、定量的に評価するか良い指標は無いのであるが。女性の社会進出に関して、あるデータがある。曰く、都道府県毎に女性の働いている割合と出生率の値を取ると、そこには正の相関があるという。そして世の中には、このデータを以て「女性の社会進出は出生率を高める。女性の労働促進は、少子化や子育てにマイナスなのではなく、プラスの影響をもたらすのだ」と主張する人がいる。私はこの主張にリアリティを感じることが出来ない。単純に、私個人の経験として、親が忙しくなればなる程あまり構ってもらえなかった気がするし、私もレポートなり何なりやるべき仕事が多くなる程ペットの世話が疎かになっている。では仮に女性の社会進出が出生率を高めないとして、この統計データはどう説明、解釈されるべきなのか。一つには、働いている割合と出生率が共に高いのは都市ではなく地方であり、地方においては大家族で祖父母との同居率が高く、祖父母に子供を預けて女性が働くことが出来るという理屈がある。この理屈が説明する世界観において、そういう女性が就いている仕事は、所謂女性の社会進出を推進したい人の想定する典型的なペルソナ、キャリアウーマンとして男性に劣らずオフィスワークを行うような、これから増えるべきだと彼らが思っている人間像とは程遠い。であるにも関わらず、彼らはバリバリのキャリアウーマンを増やすという目的の為に労働率と出生率のデータを無邪気に使うから、そのような統計データを生成したメカニズムが田舎の特徴にあると考える私のような人間は、何か隠れたものを見落としているのではないかと不信を覚える。ここまで考えてみると、この不信感は根本的に、何故そうなるのかというシナリオに欠けていることに根本的には由来するのではないかと思われてくる。この例で言えば、田舎世界観では祖父母同居の大家族と細々した内職、ないしパートタイムジョブによって統一的に説明されているのに対し、女性の社会進出が兎に角出生率を上げるのだという主張には、結論を導き得るストーリーが無い。これが、「隠れた因果関係を無視している」ということである。では、自分がものを考える時にこれを減らし、出来る限り誠実であるにはどうすれば良いのか。それは、統計データを見た時に、すぐにそれを解釈せずに、その統計的性質を再現出来る数理、ないしエージェントベースモデルを考案することであると今の私は結論付ける。当然、そうしても不完全であることには違いないのであるが、数理モデルないしエージェントベースモデルを考えるということは、その世界観の下で人間がどのように考え、どのような環境が所与のものとして与えられ、どのようなコミュニケーションが為されているのか一つの体系立った認識を作るということであるから、自分がどのようにその認識に至ったのか他の人から理解し易いし、この仮説が正しいかどうか、他の説明より妥当なのかどうかを考える際に何を調査すれば良いのかガイドラインを与えてくれる。現状、これ以上は望むことは出来ないであろう。
さて、「見えない因果関係を無視すること」、即ち、一つのパラメータ、条件の変化が他の条件を変えてしまわないと無意識に思うことによる過ちは、一つの問題を考える時のみ表出するのではない。現実世界は様々な複数の選択肢の集まりであるから、それぞれの問題で最適の選択を行ったからといって、その結果として得られる社会の最終状態が、他の選択肢を選んだ場合に比べて必ず優れているという保証は無い。合成の誤謬である。であるから、政策を考える際にはその案自体の良し悪しだけでなく、他の政策との整合性も考えなければならない、即ち、全体を統括するその人なりの価値判断、倫理体系が必要であるのに、そのことを意識している人は驚く程少ない。例えば、私の周囲の学生に話を聞くと、大抵「政府の無駄な支出に反対の緊縮財政支持、教育には予算を使い大学は無償化すべき、大学院生の就職率が悪いから大学院重点化に反対」という立場ばかり返ってくる。しかし、これらは私から見れば、自明に相互矛盾し、彼らの中には価値観の体系が無い。先ず、政府支出(ここでは主に公共事業を想定する)を減らすとしよう。すると、ケインズ経済学の教えるところによれば、需要が減る訳であるからそれに応えようとする供給も減る、従って、労働者の給料ないし人数が削られ、労働者への分配が少なくなる。さて、ここで大学を無償化するとしよう。すると、大学生のうち貧困層出身の人が増えるであろう。それは、従来では大学に通えなかった層も大学に行こうと入試を受けるようになるからであり、彼らが他の社会階層と大きな差が無く競争をすれば、それ相応に受かることから容易に想像出来るであろう。また、大学生の総数も増える。それは、大学に通うことの費用が下がったのであるから、大学に通おうとする人の総数が増え、かつ定員割れの大学が多数存在することにより、大学という教育サービスの供給がそれに応えることが出来るからである。加えて、定員割れの大学が主に需要増に対して応える訳であるから、増えた大学生の多くは低レベルの大学生がその殆どとなるであろう。ではここで、政府支出削減とこの状況を組み合わせてみよう。これから稼がなければならない貧困層出身の大学生、低レベル故に就職が厳しい大学の学生は増加したが、就職先に関しては求人の数も質も減少している。結果として、就職出来ない大学生の総数を必然的に増加させる。その上、その中において貧困層出身者の割合は今の大学生に占めるそれの割合よりも大きいのだ。いくら大学が無償化しても、大学に通うことのコストはゼロではない。その間の生活費等諸々の費用の他に、大学に通っている間には本格的に働けない、つまり高卒で就職していれば稼げたであろうお金もコストとして存在している。これが機会費用である。さて、大学に行ったことにより却って生活が苦しくなった人の数が増えることを、果たして私の周囲の学生らは肯定するのだろうか。「社会においてお金を稼ぐという形では直接役には立たなくても、深く勉強をした人物が増えることは公共の利益になる」等の主張を、堂々と主張するであろうか。いや、出来まい。もしそれが可能であるのならば、何故大学院の定員を増やす大学院重点化に反対するのか。本気で学問が重要と思うのならば、仮令就職が無くとも大学院を肯定すべきであるが、彼らはそれを否定するのだ。であるならば、どうして良い就職先を得られない大学生を増加させる政策を支持出来ようか、いや出来まい。結論として、この例が示しているのは、公共事業削減、大学無償化等の個別では人気のある政策が、それらを同時に実施すると全体としては、却って一般に好ましくないと思われている結果を社会にもたらすということである。このようなコーディネートの問題を考えるには、自分にとってどういう社会が望ましいのか、統一的世界観を持つことが必要である。全体として何を実現したいのかを深く考えないから、個々のテーマに対して一見良さそうに見える選択肢を選ぶことしか出来ず、結局どうなるのか考えることが出来ないのだ。もっと悪いことに、彼らは社会を見るメンタルモデルが先述のように統一性を欠いた誤ったものであるから、自分の選択がもたらした悪い結果が何に由来するのか正しく把握することが出来ず、自分の選択肢がもっと強く徹底されれば望む結果に近付くのだと思い込み、失敗を修正することが出来ない。より一層失敗することに精を出すことになる。これを回避するには、折りに触れて自分の持っている道徳感覚や政治的主張等を振り返り、それらの間に矛盾は無いか検証し、もし無いようであればそれらの考えを統一的に説明出来る世界観とは何かを考え、もし矛盾があるのであれば、何故自分がある問題と別の問題で異なる態度を取りたがっているのか、自分個人の善悪の感覚に立ち戻って考えることが必要であろう。そういう倫理観は感覚的なところから湧き出しているのも事実であるが、感覚的なものに対しても論理的に整合性を追求していくことは必要である。自分の善に対して素直になってしまっては、善意の下に人を殺す浅間山荘やポルポトになりかねない。
ここまで、一つないし複数の問題に対して、一つの条件を変えたところで他の条件は変わらない、都合良い結果がきっと得られるだろうと思い込むことの危うさを述べてきた。次に、そのように都合良く考える場合に多々見られる、現実の人間に対する無感覚を述べようと思う。それは実際に行うであろう人間の思考や行動ではなく、自説を成り立たせる為にモデルにおける人間の思考や行動を都合良く決めてしまうことである。一つの条件を変えても他の条件は変わらないだろうと思うというのも、根本的には一つの条件を変えても人間の反応はその条件に関する事柄のみ変化し、その他のことに関しては変化以後も行動を変えないだろうという考えから生じている。しかし、実際の社会はそうではない。一つの条件の変化に応じて人の動きが変わり、それによって他の条件に影響が波及して変化し、玉突き的に変動が広がっていく。そのようなフィードバックで動くシステムとしての複雑系が、社会ダイナミクスの真の姿である。特に難しく、奥深いのは、人間は学習して変化していく生き物だということである。仮に最終的には同じ状態になろうとも、そこに至る過程が異なるのであれば、異なることを経験し学習してきているのであるから、人間は異なる反応を見せる。同じ刺激に対しては常に同じ反応を返す物理系との違いがそこにある。個人の自由を高めることが必ず全体の利益にもなるというネオリベラリズムの主張がしばしば経済学を利用し、それが数理的には正しいにも関わらず何故か現実では上手く機能しないのも、彼らが利用するところの「経済学」は、人間の意思決定を過度に理想化、抽象化した、完全合理性として考えているからである。つまり、自由化という好ましい結論を導き出す為に、完全合理性という非現実的な人間像が恣意的に構成されている。確かに、如何なる人間もモデルを構築する上で必ず恣意的な示したい目標があり、従って彼の生み出す人間像が現実のそれから乖離することは避けられない。とはいえ、自分が恣意的であり、決して中立ではないということには自覚的である必要がある。特に、数学で社会の挙動を描画しようとすると、どうしてもモデルを単純化せざるを得ず、「それっぽい」仮定を多々置きがちであるので、注意を要する。

最後に、軽くではあるが、このように社会を考える者、特に学者が社会に対してどう向き合うべきなのか、現段階の荒削りな私案を書こうと思う。社会科学を研究している者の多くは、単なる知的好奇心や研究能力、社会科学の知見だけでなく、現在の社会に対して何らかの疑問、或いは「こうすればもっと良くなるんじゃないか」という理想を、意識せずとも少なからず持っていると私は思っている。即ち、研究者は潜在的には社会改善の意志と能力の双方を持った層であると言える。であるから、その知識を社会に対して還元することは必要であろう。公衆は社会の望ましい在り方について議論することは出来ても、その実現方法に関しては知ることが出来ないであろうから、これは一般の国民に対しても望ましいものであると思われる。しかし、ある種の社会運動に見られるような現状の、学者個人が勝手に政治に対して声を挙げるのは望ましくなく、寧ろ有害である。というのも、本人が意識せざるか否かを問わず、「学者」という肩書そのものが社会に対して強く影響する為、一個人としての発言をしただけのつもりであっても、そうは認められない、特にその学者と意見を異にする人は納得出来ないだろうからである。一個人の発言、投票というのが民主主義社会における一個人としての責任の及ぶ範囲であるが、学者が自分を一個人であると思って意思表明をすると、実際には一個人以上の影響力を行使しているにも関わらず、彼本人の認識では一個人として動いただけだと思っているから、それ以上の責任を引き受けようとしない。これは丁度、天皇が政治や社会に対する意見を言わないのと同様である。影響力の大きな個人は、最早個人として活動を許可されるべきではなく、ある程度公的な形で人より多くの責任を受け入れることを保証し、その上で大きな影響力を行使すべきである。原子力問題があれ程荒れるのも、根本的には「専門家は普段は意思決定において一般人よりも大きな影響力を持っているのに、原子力が大きな社会問題になった時にどのように責任を引き受けるのか、意思決定において公衆とどの程度に権限を分配するべきなのか」が問われているからなのであろうと思われる。工学者の立場からすれば、「政策は民主主義で決めるべきであるし、意思決定の責任問題に巻き込まれれば私生活や研究にも差障りが出るし、我々はリスクとリターンを提示するだけだ。あくまで意思決定をするのは社会である」のだろうと思うが、公衆が望む豊かな生活を叶える上で、必然的に社会のエスタブリッシュメントは原子力を導入せざるを得ず、公衆は意思決定をしたのだという意識が無い。そのエスタブリッシュメントに情報提供し、意見交換をした段階で公衆からは政策に関わったと見做される。公衆全てが賢くなり、「自分の選択で受け入れた」ということを自覚するのが困難である以上、専門家は専門家自身が意思決定に関わらざるを得ないことを自覚し、権限と責任を公衆に対してある程度可視化することが必要なのかもしれない。私は原子力に関わっている人が事故を受けて今後どうするか、安全性や利便性の向上に真摯に取り組んでいることを知っているが、それは一部の人にしか知られていないように感じられる。社会科学者が社会について発言する時も、どういう影響をどの程度与えるから自分はこれだけの責任を負いますよということを、どう分配すれば公衆が納得し、社会的に受容出来るか議論が必要であろう。しかし公衆、一般の有権者の側にも、意思決定の責任意識が必要だと私は思う。少なくとも大学生以上の知的階層には必須である。即ち、社会に何らかの要求を持つ時に、その要求されるものを維持する為に何らかのコストを支払う必要があり、一見突然降って湧いたように見えるリスクやコストも、実は自分の意思決定に伴う必然だったと受け入れる覚悟である。例として原子力を挙げると、もしそれをすぐさま無くそうとすれば火力の発電量を増やす為に大量に化石燃料を輸入し、かつ火力発電所のメンテナンスを減らすか、ソーラーや風力の為に多くの森林を切り払って土地を作り、かつそれらの廃棄の為の工場設備を作るか、地熱の為に地下重金属のリスクを受け入れるか、また発電量の減少に伴って日本の産業が衰退し、労働環境と生活水準の低下を受け入れるか、またはこれらの混合を呑まなければならない。また、原子力産業の衰退に伴って、将来の高速増殖炉、核融合炉等の実現も恐らく諦めることになる。その場合、他国がこれらを商用化した後に技術やら特許やらで色々派生する影響もあるだろう。これらのカウンターリスクを負担する意志と、その試算が無ければ、仮令原子力それ自体に関してどう思っていようとも、有権者として責任を負わなければならない。望む結果を維持する為には、何らかのコストが要る。民主主義国家における公共の意識とは、このように政治的意思決定について責任を負う覚悟に他ならない。民主主義国家の維持存続には、このような有権者の公共性に関する教育が必要なのかもしれない。