2015年10月18日日曜日

思想の理解と歴史、著者のメンタルモデルから源流の哲学を辿ることについて

 文章を読む際に書かれた文字列の意味そのものを理解しようとするのは明らかに間違いである。体得すべきなのは、書いた著者のメンタルモデル、即ち、何を想定して何を念頭に置いていたのかということである。人間が文章を書く時、文章という表現形式の限界か、自分の考えていることをそのまま書き表すことは出来ない。必ず内容の歪みや欠落を伴うし、かつその変形の仕方はその個人の特性や文章という表現形式等の影響により、均一ではない。例えばある人はある主張の前提となる考えは常識であるとしてつい書き忘れてしまうかもしれないし、そもそもカオスアトラクタのような文章という表現形式ではそもそも表現出来ないものもある。そうであるから、いくらある著者の文章を大量に読み込んだところで、彼が表現したかった真の内容からの乖離は一定以下までしか埋まらず、理解は深まらない。(もし歪みや欠落が純粋にランダムであったならば、大量に読めばある部分で書き落とした内容が他の部分で補充され、理解は深まっていく筈であるが。)このことは以下展開する論の大前提とする。
 さて、では文章は如何にして理解されるべきか。そこで重要となるのが歴史である。著者がどのような時代に生きていたか、その時に問題になっていたことは何で、そして何故それに対し著者が心を痛め、砕いたかという問題意識を共有する必要がある。例えば経済学において全く以て相反する理論が同時に存在し、かつそれらが共に尊敬を受けるのは何故か。経済学の理論は本質的に「人間に何らかの行動原理を仮定し、その仮定から数学的に結論を演繹すること」であるから、行動原理の仮定の仕方によって、任意の自分に好ましい結論を導出することが出来る。複数の対立する理論の雌雄を決するのは理屈の上では統計によって為されるべきであるが、現実的には統計の不確実性、またそもそも何を計量するかという恣意性の存在等により、不可能である。そうであるから、理論の良し悪しはその理論を考案するに至った思想的展開、根源的問題意識を考え、その問題が現在においても存続しているのか、また提案される解決法が有用に見えるのかといった、考案者のメンタルモデルに踏み込む必要が出てくる。同様の推察は論理展開を少し変えれば経済学以外の他の事象にも適用可能である。即ち、文章は歴史無しに理解は出来ない。
 著者のメンタルモデルに踏み込んで考えれば、例えばビジネス書や自己啓発本を読んで哲学書を理解し、また逆に哲学書を読んでそれを誰にでも分かるビジネス書や自己啓発書に翻訳するようなことが出来ないといけない。詳細に述べよう。恐らくビジネス書や自己啓発本は、著者が労働の中で得た体験を巷に溢れる本から理屈を引っ張ってきたものである筈である。著者が理論補強において参考にした本たちも、また別の本を参考にしていた筈である。この推論を続けていくと、最終的には間違いなく哲学書に至る。この世の思想の原型の殆どは哲学者が既に編み出しているものであるからだ。ということは、一見軽薄に見えるビジネス書や自己啓発本もその源流には哲学があり、では何故本来抽象的であり何らかの実用目的にはそぐわない哲学が実利目的の本で使われるかと言えば、それはビジネス書や自己啓発本の著者の体験が両者を結び付けるからである。著者のこうすれば何故か上手くいったという多数の経験に対して、それらを統一的に説明する一貫したストーリー、理由づけ、解釈を哲学が与えているのである。そうであるから、著者のメンタルモデルを文章から推測するように読んでいけば、源流となった哲学の一端に到達することが出来る筈である。これがビジネス書や自己啓発本から哲学を理解するということである。その逆である、哲学書を自分なりにビジネス書や自己啓発本に翻訳してみるというのは、もう説明は不要だろう。
 このことを理解せず、「書かれた文章はそれ自体のみで十分に理解出来る」と考える者がどういう者なのかと言うと、それは例えば所謂意識高い系であったり、反対に真理を目指す基礎学問を無上の価値と見做す、学問盲信者であったりする。意識高い系が自己啓発をし就活をしようとも思想になかなか至らないことは多々見られることである。学問盲信者は学問だけが思想に至る道であると思い込み、意識高い系を思想に到達し得ない者として見下す。これの実例として、少なくない数学や情報系が自分がよく知りもしない哲学をただ哲学であるとの理由で尊敬し、内容的にはそれに劣らぬものの無名の文章に関してはポエムとして軽蔑するのはよく観察されることであろう。結局、意識高い系も学問盲信者もいずれも等しく間違っている。

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