2015年10月25日日曜日

通俗的個人主義及びその帰結たる相対主義の知的退廃について

他のところに寄稿する予定の文章の一部です。

 深い信念に基づかない、最も安直なニュアンスにおける個人主義――これはしばしば現代社会においては常識とされ、それを弁えない者は迷惑な物として見られるのだが――は必然的に極端な相対主義に陥り、対立を避けるが故に思想的進展の余地を失う。それどころか、かつての思想家や研究者の遺産に目を背けることにもなる。それについて、我々の家族観を引きながらこれを論じる。
私は先日、知人らと集まってその家族、家族観について話し合ったのであるが、そこにおいて支配的な主張は親からの干渉の拒絶と自身の独立、結婚においても伴侶及び子供を束縛すること、されることの否定等であった。また、離婚の肯定も少なからず聞かれた。また、既存の社会構造に制約されることにも否定的である。これらの、通俗的個人主義とでも呼ばれるべきであろう態度の背後に存在するのは、対立する個人は互いに不干渉を貫くことが幸福だとする考え方である。この考え方を支えている原理は3つある。各個人は独立であること、各個人は本質的には不変であり、大きな変化はまず起こらないということ、各個人は自分が何に対して幸福を覚えるのか完全に理解していることの3つである。
何故このような3つの原理の存在が想定されるのか。それは彼等のそれに反する家族観を考え、その家族観を成立させる原理に対立する主張として発見されるのである。即ち、人間は相互依存的存在であり、個人は他の個人や社会無しには存在し得ないこと、人は対立する意見と遭遇することにより、その矛盾を解消しようとしてより高い見識を得、変わっていくこと、人間の認知はヒューリスティックスやバイアスに基づいており、自分の選好すら分からないということである。
そもそも私が先述の通俗的個人主義を批判するのかと言えば、個人の対立の回避を最優先に考える態度は、全ての価値観を同等なものに置く行き過ぎた相対主義に必然的に陥り、これは人類の積み重ねてきた思慮思想、科学の否定であるからである。これが社会の構成員の殆どの信じるところとなれば、社会は本質的に個人の働きかけによって改善不可能な代物となり、個人は構造の奴隷となる。個人の対立を回避し、意見に対して上下を付けることを常に否定すれば、捨て去るべきものも含めた任意の主張が存続することになり、また熟慮の末にかつての偉大な思想家が辿り着いた思想と、世間に通用している単なるノウハウの区別も無くなるであろう。そして対立の否定はそれらの間の矛盾を解消しようという欲求をも人から奪い去るのであるから、命題と対立命題から、それらを統合しようとして全く異なった主張を作ることも無くなり、思想は発展せず、停滞する。各人の考えがこのように固定化する社会においては、力関係及び優先順位は単純な多数決のみに支配されざるを得ない。説得により誰も意見を変えないからである。また自分の中だけで考えを深め変えたとしても、他者がなく自分の中だけで完結した行為であるから、本質的な変化はせず、変化は表層的なものに留まる。もし奇跡的に特定の個人が相対主義を克服したとしても、社会の構成員の大多数は他者からの干渉を拒絶し、自分が変化することを許さないのであるから、社会の圧倒的大多数は依然として相対主義であり、種々の政治的意思決定においてその多数派は必ず意志を通す。このような社会において現行の政策の支持者が少数派に落ち、政策が転換され得るのは老人が死んで新しい子供が生まれる世代交代によってのみである。子は親や祖父母の世代を見ているから、それらの失敗は学ぶことが出来る。しかしそれはあくまで個人の中で完結した限定的な学習に過ぎず、単なる具体的な失敗実例に対するアンチでしかないから、再び今度は別の形で失敗するのは避けられない。場合によっては、アンチのアンチを安直に取って先祖返りを行う可能性すらある。それは例えばリベラルな思想の普及こそが過去の失敗を踏まえた進歩だと信じている人間の多そうなフランスにおいて、322日と29日に行われたフランス県議会選挙第1回投票で国民戦線(FN)が25.2%の史上最高の得票率を獲得したことをどう見るかということである。現党首マリーヌ・ルペンは兎も角、その父で前党首であったマリー・ルペンがしばしば反ユダヤ的言動を取るのはこの一例ではないか。流石に単純な先祖帰りを起こす者は少数派であり、マリー・ルペンは支持拡大を目指す国民戦線から排除されつつあるのだが。
このような状況においては例えば、迷信や差別思想等も減らすことは出来ないだろう。これに対して「他人に迷惑を掛ける、ないし損害を与える思想、行動は個人の尊重という原則に反するものであるから、これを排除するのは個人主義に矛盾しない」というような反論が想定されるが、その考えは理屈としては間違っていないが現実世界において実効性のある形で運用することは不可能であり、別の原理を求めなければならない。
現実において機能しない理由として、迷惑や損害というものが実際には万人が納得出来るように一意に決めることが出来ないことが挙げられる。例えば福島への風評被害の問題を考えてみよう。科学的に言えば、福島県の住民や福島県産の食品を食べた人に対して放射線による有意な健康被害は起こらないということは明らかであり、従ってその危険性を主張するのは福島県民の生活に対する攻撃に他ならない。しかしながら、放射能の危険を言う人々の認識においては、福島は重度の放射能汚染状態にあるのであり、住民は生活を捨ててでも移住することが将来の健康被害を減らし、住民の幸福に資すると思っている訳である。彼等の多くは純粋な善意から意図せぬ加害行為を行っているのであり、これを通俗的個人主義者がどのような論理を以て批判することが出来るだろうか。この場合には科学的に決着が付け得るが、そうでない場合にはどうするのか。また文化の維持等、公共的な目線が入ってくる場合にもこの問題は難しくなる。例えばアパルトヘイトの理論武装に西洋文化による文化帝国主義に反対する文化人類学のロジックが使われたことをどう評価するか。以下一部引用するが、是非これは全文を読んで欲しい。“アパルトヘイトを推進した白人政権は、もちろん政治・経済的な側面を計算し尽くして、計画的にこれを導入したが、この政策に対して文化面での装飾を施し、人びとを同意へと誘った役割を果たしたものの一つに、イギリス系の社会人類学の存在があった(注:「文化人類学」と一般に呼ばれる学問であるが、イギリスではしばしば「社会人類学」の呼称が用いられる)。この経緯について、明快な指摘を行っている著作を、以下に引用する。「当時(引用者注:居住区の隔離が法制化されていった20世紀初頭)の隔離政策のブレーンとして、「原住民」の境遇に同情するイギリス系の知識人が積極的に利用された」「白人権力による征服と抑圧、さらには部分的な同化の容認によって、伝統的なアフリカ人社会は崩壊の危機に瀕していた。白人社会と伝統的なアフリカ人社会を引き離しておくことで、それぞれの集団は、それぞれの価値観に従って生存していくことができる。こうした考え方は、「文化相対主義」を信奉し「原住民の伝統文化の保護」を求める当時の人類学者によって、強く唱導された。」(峯, 1996: 124)”(http://synodos.jp/society/13008/2より、空白と改行を一部削除)
それに対して「それなら他者の行動に口出しするのはそもそも全て間違いなのだ」という反論がありそうであるが、その場合には、例えば生活に金銭的援助を必要としない大富豪が、何故私は税金を払って貧困者を助けなければならないのかという疑問を抱いた時、どのように答えるのか。恐らく「貧困者にも生きる権利があるのだから、政府はこれを援助しなければならないのだ」とでも言うのだろうが、大富豪がそれなら助けたいと思うお前たちだけでやってくれ、俺は何もしないからと言えばどうなるか。「税金を納めるのはやりたいやりたくないの気持ちの問題以前の義務だ」としか答えられないであろう。しかしこうなると、思想の如何に関わらず納税を絶対の原理として持ち出す訳であるから、通俗的個人主義者の、既成の社会の構造に束縛されないべきという原則に違反し、通俗的個人主義者の立場からの説得ではなくなる。結局納税には誰も違反してはならないと言っているのであるから。もしここで「金持ちなら税金を納めろ」と金持ちであることの特殊性を強調して乗り切ろうとすると、納税は絶対の義務だという理屈はもう使えないのであるから、その主張は相手の倫理に訴えざるを得ない。しかし倫理!これはまた通俗的個人主義者が嫌うものである。しかも相手の精神性、ないし論理矛盾ダブルスタンダードからの反論ではなく、お金を持っているという唯々外面的性質によって、人間内部を束縛しようとしているのである。普段は弱者は弱者らしく振る舞え等の主張をおかしいと思う人々が、別の人々に対してはその外面から内部が規定されるべきだと考える訳である。
これに対して「言いたいのはそうじゃない。大富豪は既に十分な幸福を得ているのだから、それを少し減らしても貧困者の低い幸福が大きく伸ばせるならそれが良いじゃないか」との反論が来るだろうが、この主張は本質的に、ある一定の基準を満たせば一部の個人に干渉して全体での幸福が増えるようにしても構わないということを言っている。しかしここで第二の問題が発生する。その線引きの基準は、一体どこにあるのか。例えば十分に子供を作らなければ労働者が不足し高齢者を実質的に見殺し、またインフラ維持が出来なくなり我々の生活水準が大きく下落する訳であるが、子供を設けることを不妊者を除いて義務化すべきなのか。すると「法律になっていないのに、強制されるのはおかしい」という反論が先ず挙がるだろう。しかし今は法律の話をしているのではない、それ以前の問題の話をしている。よしんば法律の話をするにしても、法律の縛りが無ければ何をしても非難される覚えは無いとすると、例えば在特会やしばき隊のデモを批判するのは他者に干渉しているから間違いなのか。「いやいやそれは極端な話だ、在特会やしばき隊は明らかに周囲に加害しているじゃないか」というかもしれないが、しかし子供を作らないことも他者を加害していることには変わらない。被害者と加害者が誰なのか具体的に列挙することが困難かつそれらが重複し、また責任が多数の人々に薄く広く分配されている等が違ってはいるが。ここで「間接的に被害が出ることは何をしてもそうなんだから仕方ないことだ。直接の加害行為だけが加害だ」という反論がありそうであるが、そのロジックを採用するなら納税を拒む大富豪は法律的には犯罪者ではあるが、少なくとも加害者ではなく、従って彼が罰せられるのは、唯単にそれが既に法律であっただけの理由であり、不当である。「いや法律だから仕方ないでしょ、認めなきゃ」と言われそうであるが、もしそうであるならば、かつて同性愛行為が違法であった時にはあなたは同性愛行為を処罰することに反対しないということですかと訊きたい。加害者でない者を単に法律に従って罰するのを肯定するのであれば、その時代においては必ず同性愛行為に反対せねばならず、今日のように解放されることは無かったであろう。法律で定まっていることであっても、合理性を欠いているものは何らかの運動により否定され、法律は改訂されるべきである。果たしてここに、場当たり的な感情ではなく、相互に矛盾しないロジックとして大富豪に納税させる主張を構成することが出来るのか、いや出来まい。そして同時に子供を作らないことを倫理的に非難することを個人への干渉だとして退けるものとしてそのロジックを構成するのは、尚更困難であろう。しかしここで大富豪の脱税を許すと言い放てば、それは貧困者を見捨てることになる。ここにおいて、通俗的個人主義は思想として完全に破綻する。

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