2015年10月21日水曜日

宮田氏の評に対する返答

 先日の記事(http://seigaikijin495.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html)に対して宮田氏が論評を載せていた(http://yagatekikoeru.blogspot.jp/p/blog-page.html)ので、それに対する返答を書く。
 宮田氏の文章を読んで感じるのは、ロジックが不鮮明、ないし掴みづらいということである。そういう感想それ自体が恐らく彼曰く“他にも思想=文体があるにも拘らず、すべての文章が彼と同じ「アイデア」で書かれている、と想定している。”ということなのだとは思うが。宮田氏の文章で一番の心臓は“このことは慣れている人には自明のことなのだが(以下略)”の段落だと思うのだが、比喩がありながらも具体的な逸話がなく、その点が私には分かりにくい。なので私がその内容を、極一部ではあるのだが、理解しようと努めた時には次の段落に述べるアリストテレスの喩え話を作らなければならなかった。これは個々人による納得の生じ方の違いなのかという気がする。
 間違っている可能性が低くないことを承知で言えば、恐らく宮田氏の念頭にあるのは、ある一つのテキストの読まれ方が一つに固定されてしまうことへの危惧、コンテキストの変化によってその文章が持つ「歴史的(?)」意味が変化していくことから目をそらさないことなのではないかと思う。私の憶測であり、史実を反映しているとは言えないので妥当性に疑問があるであろうが、次に挙げる喩え話の真偽は議論の結論には影響しないと考えられるので、それを述べさせてもらう。また、著者と著作の区別も無視する。アリストテレスは同時代人から見れば医学や自然学にも深い造詣があり、狭義の哲学者というよりはあらゆる学問の専門家として思われていたであろう。少なくともイスラム圏においては、教義の理論武装に使われた哲学者としての側面だけでなく、イスラム科学の発展に大いに貢献したことから推測されるように、偉大な科学者でもあっただろう。イスラム圏に渡ったアリストテレスがキリスト教圏に流入した当初は、哲学と教義の矛盾が問題となった。アリストテレスは、キリストへの反逆者だと捉えた者もいたに違いない――アリストテレスの生きていた時代には、まだキリストは生まれてすらいなかったにも関わらず。しかしトマス・アクイナスがアリストテレスとキリスト教を統合すると、今度は逆にキリスト教の根本思想になった。すると、今度はガリレオ等の科学者の学術的活動を阻害するようになり、アリストテレスの科学者としての側面は失われ、頑迷な宗教者になった。(余談であるが、現代においても少なくとも物理学者はアリストテレスを科学者だとはあまり思っていないだろう。物理学の歴史は多くの場合ニュートン、そうでない場合にはガリレオから始まる。)そして現代においては、アリストテレスは宗教者としてではなく、専ら哲学者として見られ、科学活動については哲学の一部として考えられている。このように、アリストテレスは時代と読者の相違によって全く違った理解がなされており、確かに私が先日述べた“作者のメンタルモデルを考えるということ”の範疇を超えていると考えられる。アリストテレスが何者であるかは、アリストテレス本人だけでなく読者やコンテキストにも依存している。読者が自分自身の中にあった何ものかをアリストテレスに投影していると言えるかもしれない。尤も、このアリストテレス問題は私が見落としていたことのあくまで一つに過ぎず、恐らく宮田氏の述べたかった内容はより広範なのではないかという気がするが。
 しかし、私がアリストテレス問題を先日の記事において考えていなかったのは、先日に想定していた問題はより短い時間スケールの問題だったからである。社会や政治を語る時、しばしば一面的、それどころか単なるこじつけや言いがかりから煽情的なタイトル、主張を作り、拡散するような問題を主に考えていた。例えば福島県への風評被害等。確かに、社会や政治、それどころか科学においても複数の解釈、読解は存在するものではあるが、それは必ずしも任意の読み方が同等に正しいということを保証しない。実際には、明らかに間違った読み方が存在する。例えば「原発腫瘍は放射線から発生したものだ」等。私が著者のメンタルモデルや歴史の重要性を主張したのは、如何にしてその主張が生成されたか、それ以前の積み重ねを踏まえることにより間違った解釈を取り除くことを念頭に置いている。これを怠れば、絶対にある一つの解釈が正しいという権威主義に陥るか、さもなければ全ての主張は同等という悪しき相対主義に至るかしかあり得ない。このような状況であった為、アリストテレス問題は見逃されたのである。
 また、ビジネス書や自己啓発本に関する議論に関しても、言わなければならないことがある。書いていなかったことを後から付け加える訳であり、卑怯なのだが容赦して欲しい。ビジネス書や自己啓発本というのが具体例として挙げられているのは、理学系の所謂意識低い系が最も馬鹿にするものであるからに過ぎず、議論において哲学に通じると言いたかった本はまた少し違っている。私としては、ビジネス書や自己啓発本でさえ思想に通じる可能性があるのだから、『私が想定している本たち』をや、と言いたかったのである。あの段落の目的は、本来は理学系意識低い系の啓蒙である。彼らは明瞭かつ一意的に解釈出来るものにしか高い価値を置こうとしない。また、同時に具体的なものを卑しいと考える。具体的な事例は必ず理念と比べて歪んでいるのだから、唯一性を愛する彼らがこれを嫌うのは整合的である。これらの価値観により、彼らは数学や情報、或いは理論物理を好み、その他を見下す。こういう手合いは理系にいれば無数に見るものであって、その精神性は、理学部のそれと比べれば薄いとはいえ、工学部にすら溶け込んでいる。これが理系の学生の間における、「数学的でない」ことを勉強することの軽視に繋がっている。例えばそれは工学倫理であったり、また機械や構造物の設計において如何にして要求項目を達成し、創造を成し得るかという人間の頭の使い方、発想の技法、マネジメントであったりする。このような具体的な例は幾らでも挙げられるであろう。では、数学的でないものを見下す態度は何故批判されなければならないのか。その理由は、世に言われる理系不遇論の殆どが単に文系なり日本社会が悪いと言うのみであり、理系の非理系的なるものへの無知を無視しており、それが問題解決の遅れ、ないし理系による他への逆恨みを醸成しているからである。理系が不遇だというのは私に言わせれば理系自身の非理系的なるものの軽視に伴うある種の社会的能力の欠如が原因であり、理系であること自体が不遇をもたらしている訳ではない。文系や体育会系であろうと社会的能力が欠如していれば不遇は免れない。それ自体は社会が高度に組織化され、個人のみでは生活に必要なものを何一つ生産出来ないことから生じる必然であり、解消することは出来ない。であるから、理系不遇の問題を解決しようと思うのなら、理系自身が勉強することが求められている。にも関わらず彼らは不満を言うだけであり、問題解決に対してなんら実効性のあることを主張、行動することがない。このような態度は、少なくとも私にとっては不快である。尤も彼らは、口では非理系的なるものを軽視などしていないと言う。文系的教養、特に哲学は重く見ていると。しかしそれは偽りである。彼らは文章や主張が哲学等の学問の名において渡される時にはそれを尊敬するような素振りを見せるが、内容を理解している訳でなく権威に盲従し、また教養や哲学を解さない者として軽蔑されるのを嫌っているだけであるから、肩書無しで教養や哲学を踏まえた文章を渡されると堂々と自分がその文章を理解出来ないことを誇り、この文章は論理の体を成していない、空虚なポエムだと言い始める。彼らを救うにあたってどうすれば良いのか、それが問題意識としてある。そこで私が出した結論が、(事実関係が科学的に間違っている等の一部の例外を除いて)全ての文章を尊敬し、歴史や著者のメンタルモデルを踏まえることで字面以上のことを学ぼうということなのである。彼らにいきなり哲学や思想を与えたところで分かったふりをするだけで無意味だ、それらを解するにはそれなりの積み重ねが必要である。彼らに必要なのは離乳食である。理解に難し過ぎず、かつ内容的に浅過ぎない。だが彼らは数理を貴ぶ理系のプライドにより、それらを受け付けない。仮令一部を受け付けたにしても、同等の深みを持つ本たちに対して自ずと序列を付け始め、どうしても拒絶する本が間違いなく出現する。そうであるから、ビジネス書や自己啓発本といった彼らの中で最底辺の価値すら持たないものにさえ本当は価値があると思わせ、如何なる文章に対しても深く理解してやろう、多くを学んでやろうという精神性を身に付けてもらう必要がある。分かり易そうに見えるものを見下す精神を、捨てねばならないというのが本意である。

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