2015年9月11日金曜日

全てを学ばないと、一つも分からない

 学問というものは、全ての分野を一通り学ばなければ、自分の専門となる一つの分野でさえ真には理解出来ないのではないかと思う。特に社会科学ではそうだろう。というのも、学問の成果を実社会で使う際には、狭い学問範囲から出した最適解は他の学問分野によって導出されるような制約条件を満たしていなかったり、他の学問分野の対象の部分に大きな負荷を転嫁している可能性があるからである。
 極端に単純化した喩え話をしよう。教育学者の教育に関する意見が絶対に通る社会があったとしよう。ここで、「最高の教育」を実現する為にコストを無尽蔵に掛けたら、他のことをやる費用が無くなるし、それは例えば景気刺激策や社会保障等、他の分野の削減を意味する。つまり、自分の分野の予算拡充が過ぎれば他の分野を削らねばならないから、「最適な教育」というものは教育学の知見だけからは決して決められないし、決めるべきではない。その実例は例えば韓国で、大学受験当日に交通機関や警察が受験生に協力する等、明らかに日本よりも教育に熱心であるが、韓国の教育が日本のそれよりも優れているかというのは難しい。恐らく、教育に掛けるコストを削って新規事業立ち上げの支援や内需拡大策を取り、財閥主体の経済体制からの脱却を図った方が教育にとっても実は良いのではないか。そうなるメカニズムとして考えられるのは、教育学の範囲では外部から所与として与えられる条件が、社会情勢の変化によって変化し、改善されるというものである。即ち、教育制度や教育文化といった、教育に関係した分野だけから教育がどうあるべきかの最適解を導くことは出来ないし、この理屈は教育以外の分野にも言えるというのが私の結論である。

 私は大学教育の最大の目的は職業研究者の育成や研究そのものではなく、寧ろ民主主義社会で健全な意思決定の出来る教養人の育成だと思っているから、政治哲学や経済学等、全員が学ぶべき学問というのがあるんじゃないかとも思っている。

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