現代日本では「他人の権利を侵害しないのであれば、何をするのも自由だ」という命題は広く支持されているように見える。しかし、システム論的に考えると、この考えには重大な欠点が存在する。それは、人間社会は多数の人間が常時意思決定を行う複雑システムであるため、ある個人の選択が直接的には他人の選択に理論上は影響を及ぼさないとしても、間接的、実質的には選択を制限することが多々あるということである。このことを認識していないと「他人の権利を認めるだけならばそれに自分に対する害はないので、とにかく自由を増やすべきだ」となるが、実際には個人のレベルで自由を増やしたからといって全体として自由が増えるとは限らない。ミクロでの推論はマクロには拡張できないのだ。これは経済学では合成の誤謬として意識されているが、他の社会科学ではあまり認識されていないように思われるし、一般人は言うまでもない。ここでは、システム的な作用によって間接的に自由が制限される分かり易い実例を挙げ、体感的に納得して頂きたい。しかし現実にはもっと複雑な因果・相関関係が多く、本当はもっと事例を挙げる筈が言語で上手く説明できなかった。
事例①大学の出席管理
ある大学のS学科では成績評価の一環として出席を取っている。しかし、多くの教員は学生は不真面目であり、遅刻したとしても欠席するよりかはマシだと考えるのか、遅刻した人にも出席簿にサインを許す。すると、実際に学生は怠惰なので単位さえ取れればいいと思い、その環境に適応して常に遅刻するようになる。すると、ある教員が講義の性質上(最初を聞かないと最後まで分からない、演習形式etc)遅刻に厳しく出席を取ろうと思っても、殆どの学生が遅刻するので、結局形骸化せざるを得ない。この事例を先述のシステム論から説明すると「常識的な考えからは、それぞれの教員が教育内容を自由に決める度合を最大化するためには、それぞれの講義に関して相互不干渉が最良になる筈である。しかし実際に相互不干渉を実施すると、理論上は自由を最大化できる筈が実際には出席を厳しく取りたい教員の、出席を厳しく取る自由を制限してしまっている。」ということになろう。理論上は「遅刻する学生が悪い」のだが、学生の性質を簡単に変えることができるだろうか、いやできまい。そもそも学生の遅刻という現象そのものが、遅刻に甘くかつ出席が成績評価で重いという学科のシステムに適応した結果である。学科が自分から作りだしたものを自分で非難するというのは矛盾である。余談だが、私が「文科省の大学への干渉には何でもかんでも反対」という人を批判するのは、これと類似のメカニズムにより、大学の自主性を形式的に高めることが実質的な大学の自由を損なう可能性もあると考え、無干渉状態のリスクを訴えたいのである。
2015年5月27日水曜日
2015年5月22日金曜日
言葉や数式では記述し切れない知識の存在
ある講義に関して、私の一つ上の代の計数の友人が「これはアジテーションだ。最初には数学で問題が記述できないと主張しておきながら、結局最後は力学系カオスになっている。」と評していたが、その講義を実際に受けて私が思ったことはその逆であった。その講義は明らかにアジテーションではなく実質がある。では何故彼は単なるアジテーションだと捉えたのか。言語や数式で明示的に書かれた知識しか知識、学問として認めなかったからである。これは数学屋の病理ではないかと私は思ったりした。ここで、明示的に記述出来ない知識とはどういうものかを議論し、それを認めることの価値を論じたい。
記述できない知識が重要、というよりも本質である学問領域の一つはマネジメントやシステム工学であろう。マネジメントの価値を分かっている人の皮膚感覚をよく表しているネットの書き込みの一つが[1]“スタートアップに居た時も、気持ち的に社員だれかの名前を忘れ出す規模になると小規模の会社の団結力が突如弱まり出す感じだった。そこからはHRポリシー、ビジネスプラン、ストラテジーなどプロセスを積極的に持ち込まないと空中分解する。あの大きな会社への「変化」の時が大事だと思った。”であろう。別に「X人になったらメンバーの意欲がY%落ちる」みたいに定式化されている訳ではないが、確かにマネジメントを学んだ人間には「その知識は有用だ」ということは分かるのである。かなり感覚の話なので言葉で説明は出来ないのだが、あるのである。取り敢えずそれは疑問に思ったとしても一旦鵜呑みにしてもらって、では世間で流通しているマネジメントの教科書や論文とは一体何なのか、言葉で書かれているじゃないかという問題を考えよう。私が思うに、そういった文章になったマネジメントというのは、感覚というのを何とかして言葉、即ち他の人にも理解可能な形式に情報の欠落、変質が少なくなるように変換しよう、最初は何だかよく分からないけれどもその手法を真似して、行動しているうちに感覚を自覚出来るようになる手法を作ってみよう、そういう必死の、漸近的な試みなのである。従って例えば、ブレインストーミングやマインドマップは有名であるが、それはその手法そのものが偉く、その手順通りに行えば成果やアイデアが出る、イノベーションだという代物ではないのである。あくまでブレインストーミングやマインドマップを行っていくその過程の中で、自分が普段どのように何を考えているのかを自覚し、その感覚を表に引き出すだけなのである。当然、一つの手法で全ての感覚を引き出せる筈もないから、多種多様な発想技法が日々考案されている。これに対して、「そんなものを使わなくてもアイデアは出せる」という反論もあり得るだろうが、それは実績を見給え。製造業ではこのような手法の活用により、市場のニーズと自社の技術、収益性を両立した製品のアイデアが、手法を使わなかった場合よりも豊かに生まれている。日本の自動車産業が依然強いのに対し、家電はアジアに追い抜かれているのも、こういった手法の一つであるQFD(quality function deployment、品質機能展開)の活用の多寡が一因ではないのか。
先述した「記述できない知識が存在し、しかも何故か有効である」という考えは、認知心理学の研究テーマにもなっており、裏付けられていると言えよう。詳細は後日EysenckとKeaneの"Cognitive Psychology"の当該部分を読み終わった後に加筆するが、ここでは取り敢えずドレファスの技能獲得の5段階を述べておこう。ビギナー、中級者、上級者、プロ、エキスパートと発展していくのであるが、エキスパートになると過去の経験から没合理的になるとされている。即ち、状況から最適な行動を導き出して取ることが出来るのだが、自分がどういうプロセスでその解を見出したのか自分でも分からない、上手く説明出来ないのである。上級者の段階では大量の個々のルールからパターンマッチングをしていたのが、プロになるとどこか変わってきて、エキスパートになると何だか分からないけれどもパターンにない状況でも最適解が出せてしまう。
また、記述できない知識を本質としない学問であっても、学問を学ぶ過程で身に付く身体感覚というのはやはり存在し、それが専門による個人の根本的思考の差異になっている。明示的な知識の有無が違いを作っている訳ではない。皮肉なことだが、「全ての学問知識は言語か数式で明示的に記述される」という信念も、曖昧さを許さない数学を専門で学ぶ過程で身に付いたものなのだろう。異なる専門間で対話するときの困難はこれであるが、これを明らかにすることこそがその目的とも言えよう。何故ならば、学ぶ過程で得た身体感覚には、この上ない価値があるからである。その価値が認められている実例として、就職活動を挙げよう。就職活動をしている友人の発言に[2]“就活に侵されると、いかに学んだこと・やってきたことを抽象化して、身に着いた何かをアピールすることばっか考えるようになる”というのがあり、それがその一例なのではないかと。何はともあれ、言葉にならない知識が重要なのだというのは確かである。
最後に、最初に挙げた講義について述べると、時間の不足もあってバラバラな要点の強調が多く、明示的な知識という観点では確かに矛盾のように見え、アジテーションという評価も分からなくはない。しかし、複雑系を分かっている人には言いたいことは分かるし、なかなかそれ以上の表現が難しいというのも事実。その先生のモットーである“大学の授業で大事なのは教科書を読んで分かるようなことは話さないことです。教科書を読んでもなかなか分からない本質的なことを話します。”というのを目指そうとするとああなるのは仕方ないのかなという印象である。
参考文献
[1]https://twitter.com/mozantotani/status/598507118409306114
[2]https://twitter.com/yamag23/status/600508843592790016
記述できない知識が重要、というよりも本質である学問領域の一つはマネジメントやシステム工学であろう。マネジメントの価値を分かっている人の皮膚感覚をよく表しているネットの書き込みの一つが[1]“スタートアップに居た時も、気持ち的に社員だれかの名前を忘れ出す規模になると小規模の会社の団結力が突如弱まり出す感じだった。そこからはHRポリシー、ビジネスプラン、ストラテジーなどプロセスを積極的に持ち込まないと空中分解する。あの大きな会社への「変化」の時が大事だと思った。”であろう。別に「X人になったらメンバーの意欲がY%落ちる」みたいに定式化されている訳ではないが、確かにマネジメントを学んだ人間には「その知識は有用だ」ということは分かるのである。かなり感覚の話なので言葉で説明は出来ないのだが、あるのである。取り敢えずそれは疑問に思ったとしても一旦鵜呑みにしてもらって、では世間で流通しているマネジメントの教科書や論文とは一体何なのか、言葉で書かれているじゃないかという問題を考えよう。私が思うに、そういった文章になったマネジメントというのは、感覚というのを何とかして言葉、即ち他の人にも理解可能な形式に情報の欠落、変質が少なくなるように変換しよう、最初は何だかよく分からないけれどもその手法を真似して、行動しているうちに感覚を自覚出来るようになる手法を作ってみよう、そういう必死の、漸近的な試みなのである。従って例えば、ブレインストーミングやマインドマップは有名であるが、それはその手法そのものが偉く、その手順通りに行えば成果やアイデアが出る、イノベーションだという代物ではないのである。あくまでブレインストーミングやマインドマップを行っていくその過程の中で、自分が普段どのように何を考えているのかを自覚し、その感覚を表に引き出すだけなのである。当然、一つの手法で全ての感覚を引き出せる筈もないから、多種多様な発想技法が日々考案されている。これに対して、「そんなものを使わなくてもアイデアは出せる」という反論もあり得るだろうが、それは実績を見給え。製造業ではこのような手法の活用により、市場のニーズと自社の技術、収益性を両立した製品のアイデアが、手法を使わなかった場合よりも豊かに生まれている。日本の自動車産業が依然強いのに対し、家電はアジアに追い抜かれているのも、こういった手法の一つであるQFD(quality function deployment、品質機能展開)の活用の多寡が一因ではないのか。
先述した「記述できない知識が存在し、しかも何故か有効である」という考えは、認知心理学の研究テーマにもなっており、裏付けられていると言えよう。詳細は後日EysenckとKeaneの"Cognitive Psychology"の当該部分を読み終わった後に加筆するが、ここでは取り敢えずドレファスの技能獲得の5段階を述べておこう。ビギナー、中級者、上級者、プロ、エキスパートと発展していくのであるが、エキスパートになると過去の経験から没合理的になるとされている。即ち、状況から最適な行動を導き出して取ることが出来るのだが、自分がどういうプロセスでその解を見出したのか自分でも分からない、上手く説明出来ないのである。上級者の段階では大量の個々のルールからパターンマッチングをしていたのが、プロになるとどこか変わってきて、エキスパートになると何だか分からないけれどもパターンにない状況でも最適解が出せてしまう。
また、記述できない知識を本質としない学問であっても、学問を学ぶ過程で身に付く身体感覚というのはやはり存在し、それが専門による個人の根本的思考の差異になっている。明示的な知識の有無が違いを作っている訳ではない。皮肉なことだが、「全ての学問知識は言語か数式で明示的に記述される」という信念も、曖昧さを許さない数学を専門で学ぶ過程で身に付いたものなのだろう。異なる専門間で対話するときの困難はこれであるが、これを明らかにすることこそがその目的とも言えよう。何故ならば、学ぶ過程で得た身体感覚には、この上ない価値があるからである。その価値が認められている実例として、就職活動を挙げよう。就職活動をしている友人の発言に[2]“就活に侵されると、いかに学んだこと・やってきたことを抽象化して、身に着いた何かをアピールすることばっか考えるようになる”というのがあり、それがその一例なのではないかと。何はともあれ、言葉にならない知識が重要なのだというのは確かである。
最後に、最初に挙げた講義について述べると、時間の不足もあってバラバラな要点の強調が多く、明示的な知識という観点では確かに矛盾のように見え、アジテーションという評価も分からなくはない。しかし、複雑系を分かっている人には言いたいことは分かるし、なかなかそれ以上の表現が難しいというのも事実。その先生のモットーである“大学の授業で大事なのは教科書を読んで分かるようなことは話さないことです。教科書を読んでもなかなか分からない本質的なことを話します。”というのを目指そうとするとああなるのは仕方ないのかなという印象である。
参考文献
[1]https://twitter.com/mozantotani/status/598507118409306114
[2]https://twitter.com/yamag23/status/600508843592790016
2015年5月18日月曜日
DBMによる落雷のシミュレーション(3)
動画(mp4)形式にすることが出来ました。
雷がゆっくり落ちていくバージョンと、一本一本の雷が落ち切った瞬間だけを切り取って集めた“電撃が太くなっていく”バージョンの2つです。
今後はこれを使って何か別のものを作ろうと思います。
雷がゆっくり落ちていくバージョンと、一本一本の雷が落ち切った瞬間だけを切り取って集めた“電撃が太くなっていく”バージョンの2つです。
今後はこれを使って何か別のものを作ろうと思います。
2015年5月6日水曜日
無制限の自由は却って自由を奪う
私の友人には数学科の人がいて、彼はとても頭がいいのだが、社会問題の話となると根本的に間違えることが多い。その一因に「より多くの自由を与えれば、与えられた主体はより自由、主体的に行動出来る」という思い込みがあるということが挙げられる。今回は、その考えが何故間違っているのかを、大学行政を例に述べる。
彼の考えによれば「学問の自由、大学の独立性を確保するには、文科省等の政治からの干渉が少ない方がいい」ということであるが、私に言わせれば、過度の無干渉という意味での自由は市場の失敗により却って学問の自由を損なうことになる。理論的に述べるのは難しいが、実際の現象に整合的なストーリーを述べると、次のようになる。
①学生数の減少している(特に地方)大学は、学生を集めなければ経営が成り立たず、存続出来ない。
②そこで、知名度を上げる為に、元新聞記者やTVキャスター等の、研究能力の無い有名人を教授として迎える。
③(これに実際に効果があったかは兎も角)他の大学内部の人がこの策を見、学生獲得競争に負けないように導入する必要に迫られる。
④結局、学生数の減少している大学は(形式的にはこの策を採用するしないは自由の筈だが)実質的には採用せざるを得なくなり、結果、教授選択の自由という学問の自由の1種が失われる。
⑤更に言えば、そういうタレント教授も教授会等である程度の発言力を持つ筈なので、間接的に他の種類の学問の自由も損なわれる。
これはタレント教授の採用に限らず、兎に角目新しい策を導入して何かをしようとする全ての現象に対して、程度の差はあれ成り立つ議論である。このような場合、文科省がタレント教授の採用に何らかの方法で制限を掛けた方が、最終的に確保される学問の自由の総量は多いであろう。加えて、議論の本筋から離れてミクロな問題を考えてみても、タレント教授の採用によって有望な若い研究者がアカデミックポストを奪われているかもしれない。自由によって自由が奪われているのは明らかである。
結論として、より一般化すると、私の主張は「より多くの自由を与えると、自由を与えられ得る主体は(仮令それが大学であったとしても)全て社会に属するものであるから、必ず社会と市場の影響を受ける。従って、市場の失敗により、その自由は規制の無い状態に比べて逆に制限されることがあり得る。当然、過度の規制は自由を損なうが、適切な規制というものは存在し、それを探すべきである。」ということになる。これは様々な現象の説明になるだろう。
彼の考えによれば「学問の自由、大学の独立性を確保するには、文科省等の政治からの干渉が少ない方がいい」ということであるが、私に言わせれば、過度の無干渉という意味での自由は市場の失敗により却って学問の自由を損なうことになる。理論的に述べるのは難しいが、実際の現象に整合的なストーリーを述べると、次のようになる。
①学生数の減少している(特に地方)大学は、学生を集めなければ経営が成り立たず、存続出来ない。
②そこで、知名度を上げる為に、元新聞記者やTVキャスター等の、研究能力の無い有名人を教授として迎える。
③(これに実際に効果があったかは兎も角)他の大学内部の人がこの策を見、学生獲得競争に負けないように導入する必要に迫られる。
④結局、学生数の減少している大学は(形式的にはこの策を採用するしないは自由の筈だが)実質的には採用せざるを得なくなり、結果、教授選択の自由という学問の自由の1種が失われる。
⑤更に言えば、そういうタレント教授も教授会等である程度の発言力を持つ筈なので、間接的に他の種類の学問の自由も損なわれる。
これはタレント教授の採用に限らず、兎に角目新しい策を導入して何かをしようとする全ての現象に対して、程度の差はあれ成り立つ議論である。このような場合、文科省がタレント教授の採用に何らかの方法で制限を掛けた方が、最終的に確保される学問の自由の総量は多いであろう。加えて、議論の本筋から離れてミクロな問題を考えてみても、タレント教授の採用によって有望な若い研究者がアカデミックポストを奪われているかもしれない。自由によって自由が奪われているのは明らかである。
結論として、より一般化すると、私の主張は「より多くの自由を与えると、自由を与えられ得る主体は(仮令それが大学であったとしても)全て社会に属するものであるから、必ず社会と市場の影響を受ける。従って、市場の失敗により、その自由は規制の無い状態に比べて逆に制限されることがあり得る。当然、過度の規制は自由を損なうが、適切な規制というものは存在し、それを探すべきである。」ということになる。これは様々な現象の説明になるだろう。
2015年4月29日水曜日
システム工学に関するメモ(講演資料作成にご協力お願いします)
某所でちょっとした講演をすることになっているのですが、アカデミックというか過去の発表例とはかなり異なった内容なので理解されるかどうかに心配があります。分かり易さや不足点、問題点等を指摘して頂き、それに合わせて本番での内容を改良したいです。出来れば感想等ください。以下講演内容の構想メモです。まだ途中ですけど。
講演概要
現在、同人ゲーム制作は(少なくとも当サークルでは)経験論的・場当たり的な手法に頼る部分が大きい。そのことがハードルとなりプログラミングやゲーム制作未経験者に対してゲーム制作の魅力を伝え、意欲を維持していく妨げになっている。そこで、何らかのモノやシステムを設計する際の考え方の基礎学問としてのシステム工学と、ゲームを遊ぶ、ないし制作する主体である人間の性質を扱う基礎学問としての認知科学を導入し、問題の解決を図る。具体的な手法はまだ開発できていないが、将来的には提案したい。
スライド案
・問題意識
ゲーム制作とかプログラミングって「投げっぱなし」が多くないですか
「好きでゲームを作る」だけで何でも上手く行くのなら、全〇連に参加する学生が減って衰退なんてことはそもそも無い訳ですし
問題解決の一般的フレームワークとして、システム工学とか使った方が良いんじゃないの
経験則や泥縄に頼っていることの問題点を、具体例とともに見てみましょう
①初心者問題
私の話です
「何をやればいい?」「好きなことをやればいい」
一見ごく真っ当なコミュニケーションにみえますよね?初心者には違うんです
「好きなこと」って何ぞや
遊んでいて楽しいゲームはあるけど、作る際に楽しいとは限らない
というか、プログラミングで何が出来るか知らないし
チューリング完全だから何でもできるとかいう意見はあり得ない
現実的にそこまでのスキルなんて修得不能だし
“自分に何が出来るか”なんて知らねえんだよ
ぶっちゃけ、苦労して作っても誰かに評価してもらえなきゃ空しいよね
「プログラミングそのものが楽しい」という一部の「異常者」以外は他人に喜んでもらえるものを作らないと、モチベーションが続かない
しかも、他人から評価された部分が自分の努力した部分に一致しないと、「分かってねーなコイツ」みたいな気分になってあまり モチベーションアップにならない
「好きなことをやってれば楽しい、長続きする」という考えは幻想
『プログラミングC#』
「必要な部分」だけ読めばいい、というアドバイス
しかし初心者は必要な部分がどこなのか誤認する。
例①何十万行ものcsvを読み込んで処理を行いたい
最初の私:ファイルの読み書きをするんだからファイルストリームの章だろう。文字列?stringとか興味無いわ
結論:ファイルストリームじゃなくて文字列の章を読め
例②dllファイルを作ってプログラミングを効率化したい
最初の私:アセンブリ?このハードウェア非依存の時代に、そんなの必要ねーよ
結論:アセンブリの章を読め
必要な部分とか、初心者には分からない
キーワード知らないし
結局初心者は何だかよく分からんうちに辞めていきます
②目標に対して効率的なゲーム制作
まあつまり、私がシステム工学と認知科学で解決したい問題、最大目標は「元からプログラミング好きの人以外にも、ゲーム制作なり何なりを楽しめるようにする」ことです
その中には、少ない労力で高い満足を得るゲーム制作の手法を含みます
これで解決できるとは限らないが、もし解決する方法があるのなら、他にはあり得ないとは確信している
・システム工学とは
システム……要素と要素間の関係を人間が認識して現れる、全体構造
「認識」であるから、内部構造や因果関係に恣意性が現れる
その違いをディスカッションすることで、お互いの現状認識や問題意識、目標についての認識の違いを把握できる
そういう違いを認識しないと、問題解決の議論において話がまとまらない、水掛け論なってしまう
工学……意思を実現する体系(工学部HP)
技術ありきではなく、自分が何をやりたいのか、目標が先にある
システム工学……因果関係のよく分からない問題をシステムと見做して整理し、意思を実行する為の学問
この場合には「何だかよく分からないがゲーム制作がイマイチ面白くない。どうすれば楽しくやれるの?」ということ
システム工学は個別の具体的な手法は割とどうでも良いんで、基本的なものの考え方が分かってくれればそれで
私はブレインストーミングで反対意見出したりするし(手法で実現したい目標をそっちの方が上手く達成できる場合)
手法の手順を厳密に守ることではなく、その手法をどういう思考の整理・発展に使いたいのか、目的を忘れないことが大事
盲目的に手順に従うだけだと「意識高い系」の出来上がり
個別の手法は参考文献などで自習してください
良い本が少ないので、選ぶのに苦労しました
要素に一度分解してから、もう一度全体を組み立てて因果関係を推測するのがキーポイント
個別だけ、全体だけでは表層的対応になり、上手く行かない
例:進捗が少ない→残業させれば解決、みたいな
・認知科学とは
講演概要
現在、同人ゲーム制作は(少なくとも当サークルでは)経験論的・場当たり的な手法に頼る部分が大きい。そのことがハードルとなりプログラミングやゲーム制作未経験者に対してゲーム制作の魅力を伝え、意欲を維持していく妨げになっている。そこで、何らかのモノやシステムを設計する際の考え方の基礎学問としてのシステム工学と、ゲームを遊ぶ、ないし制作する主体である人間の性質を扱う基礎学問としての認知科学を導入し、問題の解決を図る。具体的な手法はまだ開発できていないが、将来的には提案したい。
スライド案
・問題意識
ゲーム制作とかプログラミングって「投げっぱなし」が多くないですか
「好きでゲームを作る」だけで何でも上手く行くのなら、全〇連に参加する学生が減って衰退なんてことはそもそも無い訳ですし
問題解決の一般的フレームワークとして、システム工学とか使った方が良いんじゃないの
経験則や泥縄に頼っていることの問題点を、具体例とともに見てみましょう
①初心者問題
私の話です
「何をやればいい?」「好きなことをやればいい」
一見ごく真っ当なコミュニケーションにみえますよね?初心者には違うんです
「好きなこと」って何ぞや
遊んでいて楽しいゲームはあるけど、作る際に楽しいとは限らない
というか、プログラミングで何が出来るか知らないし
チューリング完全だから何でもできるとかいう意見はあり得ない
現実的にそこまでのスキルなんて修得不能だし
“自分に何が出来るか”なんて知らねえんだよ
ぶっちゃけ、苦労して作っても誰かに評価してもらえなきゃ空しいよね
「プログラミングそのものが楽しい」という一部の「異常者」以外は他人に喜んでもらえるものを作らないと、モチベーションが続かない
しかも、他人から評価された部分が自分の努力した部分に一致しないと、「分かってねーなコイツ」みたいな気分になってあまり モチベーションアップにならない
「好きなことをやってれば楽しい、長続きする」という考えは幻想
『プログラミングC#』
「必要な部分」だけ読めばいい、というアドバイス
しかし初心者は必要な部分がどこなのか誤認する。
例①何十万行ものcsvを読み込んで処理を行いたい
最初の私:ファイルの読み書きをするんだからファイルストリームの章だろう。文字列?stringとか興味無いわ
結論:ファイルストリームじゃなくて文字列の章を読め
例②dllファイルを作ってプログラミングを効率化したい
最初の私:アセンブリ?このハードウェア非依存の時代に、そんなの必要ねーよ
結論:アセンブリの章を読め
必要な部分とか、初心者には分からない
キーワード知らないし
結局初心者は何だかよく分からんうちに辞めていきます
②目標に対して効率的なゲーム制作
まあつまり、私がシステム工学と認知科学で解決したい問題、最大目標は「元からプログラミング好きの人以外にも、ゲーム制作なり何なりを楽しめるようにする」ことです
その中には、少ない労力で高い満足を得るゲーム制作の手法を含みます
これで解決できるとは限らないが、もし解決する方法があるのなら、他にはあり得ないとは確信している
・システム工学とは
システム……要素と要素間の関係を人間が認識して現れる、全体構造
「認識」であるから、内部構造や因果関係に恣意性が現れる
その違いをディスカッションすることで、お互いの現状認識や問題意識、目標についての認識の違いを把握できる
そういう違いを認識しないと、問題解決の議論において話がまとまらない、水掛け論なってしまう
工学……意思を実現する体系(工学部HP)
技術ありきではなく、自分が何をやりたいのか、目標が先にある
システム工学……因果関係のよく分からない問題をシステムと見做して整理し、意思を実行する為の学問
この場合には「何だかよく分からないがゲーム制作がイマイチ面白くない。どうすれば楽しくやれるの?」ということ
システム工学は個別の具体的な手法は割とどうでも良いんで、基本的なものの考え方が分かってくれればそれで
私はブレインストーミングで反対意見出したりするし(手法で実現したい目標をそっちの方が上手く達成できる場合)
手法の手順を厳密に守ることではなく、その手法をどういう思考の整理・発展に使いたいのか、目的を忘れないことが大事
盲目的に手順に従うだけだと「意識高い系」の出来上がり
個別の手法は参考文献などで自習してください
良い本が少ないので、選ぶのに苦労しました
要素に一度分解してから、もう一度全体を組み立てて因果関係を推測するのがキーポイント
個別だけ、全体だけでは表層的対応になり、上手く行かない
例:進捗が少ない→残業させれば解決、みたいな
・認知科学とは
2015年4月28日火曜日
科学は人間の主観から自由か
結論から言えば、私が思うに、科学も人間の感情や主観から自由ではない。その理由を列挙すると、次のようになる。尚、ここでの議論は一部に社会科学を暗に想定したものも存在するが、科学一般に適合すると私は考えている。
①ある現象を再現するモデルは複数考案されるのが普通であり、そのうちの何れを選択するか、また自分ならどうモデル化するかに個人の主観が反映する。
②「人間の思考能力や行動基準を~であると仮定すると、経済現象に~という性質が現れる」という数学的、ないしアルゴリズム的に記述される“科学的事実”は人間の主観に対して独立だが、その仮定と帰結が現実社会に適合するかどうかはその時々の様々な経済的状況に依存し、“正しい理論”が何なのか決定することが出来ない。
③そもそも科学において何を研究したいのか、その方向性や問題意識が応用科学や工学等の現実世界と密接に関係しており、科学の進展方向は現実世界に非依存ではない。
以下、それぞれ説明する。
①について
例えば流体の運動なら(何らかの極限を取れば何れもNavier-Stokes方程式と等価だと数学的には示されているが)フラクショナル・ステップ法やSPH法、MPS法に格子ボルツマン法等の様々な全く異なる表現で書き表すことが出来る。空間の不動な各点に速度や圧力等を成分とするベクトル場が広がっていると見ても良いし、そういう計算格子が拡散したり集まったり変形して、時に一滴の飛沫になる世界観も良い。果ては、規則的な世界に有限個の矢印があって、その方向に1単位時間に1マスしか進まない仮想的な、存在密度の流れでさえ構わない。これが社会・経済現象となると更に難しく、何らかの極限を取ってもモデルの意味が一致しないということも普通である。例えば金融市場のstylized factsを再現するモデルとしてGCMG(grand canonical minority game)やマスロフモデルがあるが、前者は状況に適応して知的に振る舞うエージェントの挙動をモデル化して金融市場の価格決定メカニズム(ザラバ、学術的には連続ダブルオークション)を無視しており、逆に後者はエージェントの知的挙動は全く考慮しない、単なるランダムとして扱い、市場の価格決定メカニズムのみをモデル化している。従って、どう考えても両者は同一のモデルとして考えることはあり得ない訳だが、どちらもstylized factsを再現することが出来る。
②について
①後半の金融市場の例で近いものを挙げたような気はするが、やはり別個の概念として存在すると思うので、典型的な例を挙げる。高校の政治経済の授業ではセイの法則とケインズの有効需要の法則を習う筈なのであるが、その矛盾を考えたことはあるだろうか。前者では供給は需要を創造する、即ち作れば作っただけ売れると主張するのに対して、後者では需要があって初めて供給がある、即ち作り過ぎれば売れ残ると主張している。この矛盾は、決して片方が間違っているという訳ではなく、仮定している前提状態が異なるのである。雑に説明すると、前者では価格は常に変動し、生産者は値引きをしてでも全ての商品を売ると考えるのに対し、後者では生産者は価格を下げず、そして売れ残りが発生すると考えている。これまた極めて雑な議論で申し訳ないが、前者が(新)古典派で、後者がケインズ派と呼ばれている。数学的にはどちらも正しいが、どちらが現在の社会状況に整合するのかはその時々で異なる。多分今の日本のような状況だとケインズ派の方が正しいんじゃないかと根拠は無いが個人的には感じている。
③について
先ずは分かり易いであろう②の延長戦で話を進めると、ケインズが出てきたのは当時不況であり、従来から存在した古典派の理論では状況を説明出来ず、不況を脱することが出来ないという現実世界からの問題意識があった。科学が現実世界に影響されていることの証左である。これは経済学のような社会科学だけでなく、数学や物理学においても類似の例は多々ある。例えば数学の微積分学は(ライプニッツがどうだかは知らないが)ニュートンが力学の問題を記述する為に開発したものであるし、関数解析や作用素の概念は量子力学を正確に記述する為の表現として誕生した。微分幾何学はアインシュタインの相対性理論を書く為である。純粋な理論と思われている数学も、どの方向に進化していくか、その問題意識は強く現実世界にリンクしている部分もあると言って良いだろう。物理学においても同様で、空気動力学は航空機の飛行を研究する為に発展したものであるし、流体力学の境界層理論はコンピュータの無い時代に手計算で飛行機の翼の回りの流れを計算し、揚力から飛行能力を導出する為に使われるものだ。
結局、私が言いたいのは、純粋な科学と雖も現実世界の問題から離れられず、科学のより良い発展には現実世界との向き合い方、問題意識の発見の仕方が重要なのではないかということに尽きる。
①ある現象を再現するモデルは複数考案されるのが普通であり、そのうちの何れを選択するか、また自分ならどうモデル化するかに個人の主観が反映する。
②「人間の思考能力や行動基準を~であると仮定すると、経済現象に~という性質が現れる」という数学的、ないしアルゴリズム的に記述される“科学的事実”は人間の主観に対して独立だが、その仮定と帰結が現実社会に適合するかどうかはその時々の様々な経済的状況に依存し、“正しい理論”が何なのか決定することが出来ない。
③そもそも科学において何を研究したいのか、その方向性や問題意識が応用科学や工学等の現実世界と密接に関係しており、科学の進展方向は現実世界に非依存ではない。
以下、それぞれ説明する。
①について
例えば流体の運動なら(何らかの極限を取れば何れもNavier-Stokes方程式と等価だと数学的には示されているが)フラクショナル・ステップ法やSPH法、MPS法に格子ボルツマン法等の様々な全く異なる表現で書き表すことが出来る。空間の不動な各点に速度や圧力等を成分とするベクトル場が広がっていると見ても良いし、そういう計算格子が拡散したり集まったり変形して、時に一滴の飛沫になる世界観も良い。果ては、規則的な世界に有限個の矢印があって、その方向に1単位時間に1マスしか進まない仮想的な、存在密度の流れでさえ構わない。これが社会・経済現象となると更に難しく、何らかの極限を取ってもモデルの意味が一致しないということも普通である。例えば金融市場のstylized factsを再現するモデルとしてGCMG(grand canonical minority game)やマスロフモデルがあるが、前者は状況に適応して知的に振る舞うエージェントの挙動をモデル化して金融市場の価格決定メカニズム(ザラバ、学術的には連続ダブルオークション)を無視しており、逆に後者はエージェントの知的挙動は全く考慮しない、単なるランダムとして扱い、市場の価格決定メカニズムのみをモデル化している。従って、どう考えても両者は同一のモデルとして考えることはあり得ない訳だが、どちらもstylized factsを再現することが出来る。
②について
①後半の金融市場の例で近いものを挙げたような気はするが、やはり別個の概念として存在すると思うので、典型的な例を挙げる。高校の政治経済の授業ではセイの法則とケインズの有効需要の法則を習う筈なのであるが、その矛盾を考えたことはあるだろうか。前者では供給は需要を創造する、即ち作れば作っただけ売れると主張するのに対して、後者では需要があって初めて供給がある、即ち作り過ぎれば売れ残ると主張している。この矛盾は、決して片方が間違っているという訳ではなく、仮定している前提状態が異なるのである。雑に説明すると、前者では価格は常に変動し、生産者は値引きをしてでも全ての商品を売ると考えるのに対し、後者では生産者は価格を下げず、そして売れ残りが発生すると考えている。これまた極めて雑な議論で申し訳ないが、前者が(新)古典派で、後者がケインズ派と呼ばれている。数学的にはどちらも正しいが、どちらが現在の社会状況に整合するのかはその時々で異なる。多分今の日本のような状況だとケインズ派の方が正しいんじゃないかと根拠は無いが個人的には感じている。
③について
先ずは分かり易いであろう②の延長戦で話を進めると、ケインズが出てきたのは当時不況であり、従来から存在した古典派の理論では状況を説明出来ず、不況を脱することが出来ないという現実世界からの問題意識があった。科学が現実世界に影響されていることの証左である。これは経済学のような社会科学だけでなく、数学や物理学においても類似の例は多々ある。例えば数学の微積分学は(ライプニッツがどうだかは知らないが)ニュートンが力学の問題を記述する為に開発したものであるし、関数解析や作用素の概念は量子力学を正確に記述する為の表現として誕生した。微分幾何学はアインシュタインの相対性理論を書く為である。純粋な理論と思われている数学も、どの方向に進化していくか、その問題意識は強く現実世界にリンクしている部分もあると言って良いだろう。物理学においても同様で、空気動力学は航空機の飛行を研究する為に発展したものであるし、流体力学の境界層理論はコンピュータの無い時代に手計算で飛行機の翼の回りの流れを計算し、揚力から飛行能力を導出する為に使われるものだ。
結局、私が言いたいのは、純粋な科学と雖も現実世界の問題から離れられず、科学のより良い発展には現実世界との向き合い方、問題意識の発見の仕方が重要なのではないかということに尽きる。
2015年4月20日月曜日
DBMによる落雷のシミュレーション(2)
雷を連続で落とし、後続のが先行のに影響を受ける“ダンシング”までシミュレーションしました。アニメやゲームに出てくる雷撃にかなり近いグラフィックになっています。但し、画像においては単純に画像を重ね描きしています。XNAで作成したので、動画を公開出来るかは定かでありません。取り敢えずこれで分かったことは“アニメやゲームの電撃は、一発に見えていても、物理的整合性から考えると、実は連射している”ことではないでしょうか。
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