2015年5月6日水曜日

無制限の自由は却って自由を奪う

 私の友人には数学科の人がいて、彼はとても頭がいいのだが、社会問題の話となると根本的に間違えることが多い。その一因に「より多くの自由を与えれば、与えられた主体はより自由、主体的に行動出来る」という思い込みがあるということが挙げられる。今回は、その考えが何故間違っているのかを、大学行政を例に述べる。
 彼の考えによれば「学問の自由、大学の独立性を確保するには、文科省等の政治からの干渉が少ない方がいい」ということであるが、私に言わせれば、過度の無干渉という意味での自由は市場の失敗により却って学問の自由を損なうことになる。理論的に述べるのは難しいが、実際の現象に整合的なストーリーを述べると、次のようになる。

①学生数の減少している(特に地方)大学は、学生を集めなければ経営が成り立たず、存続出来ない。
②そこで、知名度を上げる為に、元新聞記者やTVキャスター等の、研究能力の無い有名人を教授として迎える。
③(これに実際に効果があったかは兎も角)他の大学内部の人がこの策を見、学生獲得競争に負けないように導入する必要に迫られる。
④結局、学生数の減少している大学は(形式的にはこの策を採用するしないは自由の筈だが)実質的には採用せざるを得なくなり、結果、教授選択の自由という学問の自由の1種が失われる。
⑤更に言えば、そういうタレント教授も教授会等である程度の発言力を持つ筈なので、間接的に他の種類の学問の自由も損なわれる。

 これはタレント教授の採用に限らず、兎に角目新しい策を導入して何かをしようとする全ての現象に対して、程度の差はあれ成り立つ議論である。このような場合、文科省がタレント教授の採用に何らかの方法で制限を掛けた方が、最終的に確保される学問の自由の総量は多いであろう。加えて、議論の本筋から離れてミクロな問題を考えてみても、タレント教授の採用によって有望な若い研究者がアカデミックポストを奪われているかもしれない。自由によって自由が奪われているのは明らかである。
 結論として、より一般化すると、私の主張は「より多くの自由を与えると、自由を与えられ得る主体は(仮令それが大学であったとしても)全て社会に属するものであるから、必ず社会と市場の影響を受ける。従って、市場の失敗により、その自由は規制の無い状態に比べて逆に制限されることがあり得る。当然、過度の規制は自由を損なうが、適切な規制というものは存在し、それを探すべきである。」ということになる。これは様々な現象の説明になるだろう。

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