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2015年5月27日水曜日

他人の権利を侵害しなければそれで良いのか

 現代日本では「他人の権利を侵害しないのであれば、何をするのも自由だ」という命題は広く支持されているように見える。しかし、システム論的に考えると、この考えには重大な欠点が存在する。それは、人間社会は多数の人間が常時意思決定を行う複雑システムであるため、ある個人の選択が直接的には他人の選択に理論上は影響を及ぼさないとしても、間接的、実質的には選択を制限することが多々あるということである。このことを認識していないと「他人の権利を認めるだけならばそれに自分に対する害はないので、とにかく自由を増やすべきだ」となるが、実際には個人のレベルで自由を増やしたからといって全体として自由が増えるとは限らない。ミクロでの推論はマクロには拡張できないのだ。これは経済学では合成の誤謬として意識されているが、他の社会科学ではあまり認識されていないように思われるし、一般人は言うまでもない。ここでは、システム的な作用によって間接的に自由が制限される分かり易い実例を挙げ、体感的に納得して頂きたい。しかし現実にはもっと複雑な因果・相関関係が多く、本当はもっと事例を挙げる筈が言語で上手く説明できなかった。

事例①大学の出席管理
 ある大学のS学科では成績評価の一環として出席を取っている。しかし、多くの教員は学生は不真面目であり、遅刻したとしても欠席するよりかはマシだと考えるのか、遅刻した人にも出席簿にサインを許す。すると、実際に学生は怠惰なので単位さえ取れればいいと思い、その環境に適応して常に遅刻するようになる。すると、ある教員が講義の性質上(最初を聞かないと最後まで分からない、演習形式etc)遅刻に厳しく出席を取ろうと思っても、殆どの学生が遅刻するので、結局形骸化せざるを得ない。この事例を先述のシステム論から説明すると「常識的な考えからは、それぞれの教員が教育内容を自由に決める度合を最大化するためには、それぞれの講義に関して相互不干渉が最良になる筈である。しかし実際に相互不干渉を実施すると、理論上は自由を最大化できる筈が実際には出席を厳しく取りたい教員の、出席を厳しく取る自由を制限してしまっている。」ということになろう。理論上は「遅刻する学生が悪い」のだが、学生の性質を簡単に変えることができるだろうか、いやできまい。そもそも学生の遅刻という現象そのものが、遅刻に甘くかつ出席が成績評価で重いという学科のシステムに適応した結果である。学科が自分から作りだしたものを自分で非難するというのは矛盾である。余談だが、私が「文科省の大学への干渉には何でもかんでも反対」という人を批判するのは、これと類似のメカニズムにより、大学の自主性を形式的に高めることが実質的な大学の自由を損なう可能性もあると考え、無干渉状態のリスクを訴えたいのである。



2015年5月22日金曜日

言葉や数式では記述し切れない知識の存在

 ある講義に関して、私の一つ上の代の計数の友人が「これはアジテーションだ。最初には数学で問題が記述できないと主張しておきながら、結局最後は力学系カオスになっている。」と評していたが、その講義を実際に受けて私が思ったことはその逆であった。その講義は明らかにアジテーションではなく実質がある。では何故彼は単なるアジテーションだと捉えたのか。言語や数式で明示的に書かれた知識しか知識、学問として認めなかったからである。これは数学屋の病理ではないかと私は思ったりした。ここで、明示的に記述出来ない知識とはどういうものかを議論し、それを認めることの価値を論じたい。
 記述できない知識が重要、というよりも本質である学問領域の一つはマネジメントやシステム工学であろう。マネジメントの価値を分かっている人の皮膚感覚をよく表しているネットの書き込みの一つが[1]“スタートアップに居た時も、気持ち的に社員だれかの名前を忘れ出す規模になると小規模の会社の団結力が突如弱まり出す感じだった。そこからはHRポリシー、ビジネスプラン、ストラテジーなどプロセスを積極的に持ち込まないと空中分解する。あの大きな会社への「変化」の時が大事だと思った。”であろう。別に「X人になったらメンバーの意欲がY%落ちる」みたいに定式化されている訳ではないが、確かにマネジメントを学んだ人間には「その知識は有用だ」ということは分かるのである。かなり感覚の話なので言葉で説明は出来ないのだが、あるのである。取り敢えずそれは疑問に思ったとしても一旦鵜呑みにしてもらって、では世間で流通しているマネジメントの教科書や論文とは一体何なのか、言葉で書かれているじゃないかという問題を考えよう。私が思うに、そういった文章になったマネジメントというのは、感覚というのを何とかして言葉、即ち他の人にも理解可能な形式に情報の欠落、変質が少なくなるように変換しよう、最初は何だかよく分からないけれどもその手法を真似して、行動しているうちに感覚を自覚出来るようになる手法を作ってみよう、そういう必死の、漸近的な試みなのである。従って例えば、ブレインストーミングやマインドマップは有名であるが、それはその手法そのものが偉く、その手順通りに行えば成果やアイデアが出る、イノベーションだという代物ではないのである。あくまでブレインストーミングやマインドマップを行っていくその過程の中で、自分が普段どのように何を考えているのかを自覚し、その感覚を表に引き出すだけなのである。当然、一つの手法で全ての感覚を引き出せる筈もないから、多種多様な発想技法が日々考案されている。これに対して、「そんなものを使わなくてもアイデアは出せる」という反論もあり得るだろうが、それは実績を見給え。製造業ではこのような手法の活用により、市場のニーズと自社の技術、収益性を両立した製品のアイデアが、手法を使わなかった場合よりも豊かに生まれている。日本の自動車産業が依然強いのに対し、家電はアジアに追い抜かれているのも、こういった手法の一つであるQFD(quality function deployment、品質機能展開)の活用の多寡が一因ではないのか。
 先述した「記述できない知識が存在し、しかも何故か有効である」という考えは、認知心理学の研究テーマにもなっており、裏付けられていると言えよう。詳細は後日EysenckとKeaneの"Cognitive Psychology"の当該部分を読み終わった後に加筆するが、ここでは取り敢えずドレファスの技能獲得の5段階を述べておこう。ビギナー、中級者、上級者、プロ、エキスパートと発展していくのであるが、エキスパートになると過去の経験から没合理的になるとされている。即ち、状況から最適な行動を導き出して取ることが出来るのだが、自分がどういうプロセスでその解を見出したのか自分でも分からない、上手く説明出来ないのである。上級者の段階では大量の個々のルールからパターンマッチングをしていたのが、プロになるとどこか変わってきて、エキスパートになると何だか分からないけれどもパターンにない状況でも最適解が出せてしまう。
 また、記述できない知識を本質としない学問であっても、学問を学ぶ過程で身に付く身体感覚というのはやはり存在し、それが専門による個人の根本的思考の差異になっている。明示的な知識の有無が違いを作っている訳ではない。皮肉なことだが、「全ての学問知識は言語か数式で明示的に記述される」という信念も、曖昧さを許さない数学を専門で学ぶ過程で身に付いたものなのだろう。異なる専門間で対話するときの困難はこれであるが、これを明らかにすることこそがその目的とも言えよう。何故ならば、学ぶ過程で得た身体感覚には、この上ない価値があるからである。その価値が認められている実例として、就職活動を挙げよう。就職活動をしている友人の発言に[2]“就活に侵されると、いかに学んだこと・やってきたことを抽象化して、身に着いた何かをアピールすることばっか考えるようになる”というのがあり、それがその一例なのではないかと。何はともあれ、言葉にならない知識が重要なのだというのは確かである。
 最後に、最初に挙げた講義について述べると、時間の不足もあってバラバラな要点の強調が多く、明示的な知識という観点では確かに矛盾のように見え、アジテーションという評価も分からなくはない。しかし、複雑系を分かっている人には言いたいことは分かるし、なかなかそれ以上の表現が難しいというのも事実。その先生のモットーである“大学の授業で大事なのは教科書を読んで分かるようなことは話さないことです。教科書を読んでもなかなか分からない本質的なことを話します。”というのを目指そうとするとああなるのは仕方ないのかなという印象である。

参考文献
[1]https://twitter.com/mozantotani/status/598507118409306114
[2]https://twitter.com/yamag23/status/600508843592790016