世間では無駄をなくすのは常に良いことだとされているが、本当だろうか。寧ろ、多くの場合には無駄をなくしたつもりになっていても実際には減っておらず、他の人に押し付けただけだったりするのではないか。例えば、IT企業において「エクセルスクショ貼り」は完全な無駄と考えられているが、果たしてそうだろうか。もし、こういう誰でも出来る作業をなくしたとすると、職場で求められる技術レベルが上がり、失職する人が出てくるだろう。再就職が難しい場合、彼らは生活保護なり何なりで養わなければならないが、それは企業が「無駄」を持ちながら彼らに給料を払って養うのと、果たしてどちらがマシなのか。
簡単な数理モデルを導入してみる。一人が生きるのに必要な資源を1としよう。最初に会社には100人の人がいて、100生産し、各社員は1の給料を受け取っているとする。この会社が、働きの悪い社員をリストラして効率化したとする。今度は社員50人、生産は75とする。すると、会社にとって生産の効率性は1.5倍になっている。利潤という点で言えば、例えば社員の給料を1から1.2に増やしたとすると、会社の手元に残る資源は最初の状態より15増えている。会社からリストラされる筈のない優秀な社員も会社の持ち主も、みんな最初より多くの資源を手にするから、この効率化にはほぼ必ず賛同することであろう。
これだけならハッピーかもしれないが、会社を離れて社会全体を見てみると、リストラされた50人も養わなければならない。すると、効率化はしても生産の総量が減っているこの変化は、社会を貧しくする方向に向かっていることは明らかである。彼らが再就職出来れば問題ないのだが、全ての会社が「生産性を落とすような劣った労働者は雇わない」方針であるならば、再就職は困難であろう。つまり、局所的に効率化した結果、全体としては逆に悪化するのだ。
このような論理はエクセルスクショ貼りだけでなく、他の事例にも応用出来よう。例えばある会社は家庭用ゲーム市場が衰退したのでその部署を縮小し、元々その部署で働いていたゲームデザイナーらをスポーツジムの清掃員か何かに配置換えしたらしいとのことでオタクから叩かれていたが、そのバッシングは本当に妥当だろうか?再就職が難しい人を雇用し、何らかの生産活動を行わせ、給料を払っているのだから先述の論理に従うと、これは善である筈だ。リストラするよりもずっと良い。そもそも、本人がその仕事よりももっと生産量の高い職場で働けるとするならば、そっちの会社へ転職する筈である(個人の生産量∝給料という近似を入れた)から、ジムで働き続けていること自体が、今の社会の中で彼らにとって一番生産量の多い職場がジムであることを表している。彼らをリストラしたところで、彼ら自身はもっと給料が低い会社で働かなければならないし、社会全体で見ても、社会全体の生産量は落ちる筈なのだ。国民全員を食わせていかなければならない現代の国家では、個々の企業の生産性ではなく、国全体での生産量を見るべきである。
2015年8月30日日曜日
2015年8月29日土曜日
労働の神話
世間には労働に関して陰謀論的な神話が流布しているようなので、それを否定するような簡単なメモを記す。
①政府は教育水準を意図的に下げて愚民化政策を実施し、企業の従順な奴隷を作ろうとしている
そんな訳はない。そもそも、この議論の前提には「沢山勉強した賢い人は、企業に搾取されない」という考えがあるが、そもそもそれが間違っているように思う。何故ならば、主張に対する反例が多々ある。例えば、韓国は日本よりも明らかに教育熱心で、大学受験を国家全体を挙げて支援しているが、そんな秀才たちがサムスン等に就職すると、厳しい労働条件の下でこき使われている。これを見るに、勉強を頑張ったからと言って企業におとなしく従わなくて済むなんていうことは全くないと考えるのが自然であろう。それどころか、これまでずっと勉強してきて漸くサムスン等の一流企業に就職出来たのだから、辞めてしまっては全てが無駄になると考え、より一層企業に対して忠実となる可能性すら考えられるのではないか。ゴールドマンサックスには社員ではなくインターンシップ生(!!)の過労死まであるし、学問が人間を自由にするというような考えは先進国では最早成り立たないのではないか。
②全ての仕事が機械化・自動化し、ベーシックインカム等により人間は働く必要がなくなる
実現しないだろうし、もし仮に最終的にそうなるにしても、移行期間において大きな社会的混乱が起きるので、ユートピアではないだろうというのが私の考え。働く必要のある人の数が少なくなっても、一部の仕事は人間がやる必要があるだろうし、それらの仕事の中には社会秩序の維持に不可欠なものもある筈だ。それらは、必ず誰かにやってもらわなければならない。その時、どれくらいの賃金で働いてもらえば成り立つのか。働く必要のない社会では、働かなくても生活出来るだけのお金を配布している訳であるから、これらの労働者に支払わなければならないお金はかなりの高額になるのではないか。そうなると、結局インフレになり、働かなくてもいい社会であるという前提が崩れるのではないかという気がする。若しくは、不労階級と労働階級に分離し、どちらかがもう一方を差別する社会の到来かもしれない。歴史的にも、嫌な仕事を被差別階級に押し付ける事例はいくつか存在した訳であるし。また、機械化や自動化にすごく熱心な企業であるAmazonが恐ろしく厳しい労働環境だということを考えると、機械化や自動化で便利になる人もいるが、その機械やサービスを提供する側は割と地獄なんじゃないかなって。
③教育を強化すると低所得者層が経済的に成功する可能性が上がる
ここで言う教育の強化とは、主に大学進学率の向上みたいなものをイメージしている。確かに、高度な知識や技能を要する知的職業は存在するのだが、その絶対数は少なく、輩出される大学生もしくは院生の数よりも少ない。それにあぶれた層は所謂普通のホワイトカラーに行くのだが、それらでは何ら特別な能力を要求されておらず、大卒者がそこへ行けるのはシグナリング効果に過ぎない。大学に行くことによる所得向上効果の大部分がシグナリング効果と言えよう。すると、低所得者層を優先的に大学に入れ割合を上げる等しない限り、そのホワイトカラーの職の雇用出来る人数が限られている以上、大学に行きホワイトカラーになってお金を稼ぐ低所得者層出身者が増えるということはない。そもそも極論、全員が大学に行くようになれば、低所得者層が大学に行ったからといって豊かになれるという訳ではない。限られたパイをシグナリング効果で奪い合うゲームである限りは。寧ろ、何らかの事情で大学に行けない人は、今以上の苦境になるであろう。皆大学に行くのが当然であるから、大学に行かなかったのは何らかの欠陥がその人にあるに違いないと考えられて。日本以上に大学進学熱が高い韓国において、大学に行けなかった人はどれだけ苦しいのか考えてみるとこういう結論が出てもおかしくないのではないかという気がするけれども。
そもそも、階層間移動の容易性って救貧において最優先されることであろうか。それよりも、どんな職業に就いたとしても、普通に生きることが出来るお金を稼げる方が大事なのではないか。「いつでも大金持ちになれる可能性が十分あるけど、貧しい人は餓死寸前」な社会よりかは、「階層はなかなか変わらないけど、餓死はあり得ない社会」の方がマシではないか。であるから、救貧には大学教育の充実よりも公共事業による雇用増加の方が良いのではないかと思うのだけれど。
①政府は教育水準を意図的に下げて愚民化政策を実施し、企業の従順な奴隷を作ろうとしている
そんな訳はない。そもそも、この議論の前提には「沢山勉強した賢い人は、企業に搾取されない」という考えがあるが、そもそもそれが間違っているように思う。何故ならば、主張に対する反例が多々ある。例えば、韓国は日本よりも明らかに教育熱心で、大学受験を国家全体を挙げて支援しているが、そんな秀才たちがサムスン等に就職すると、厳しい労働条件の下でこき使われている。これを見るに、勉強を頑張ったからと言って企業におとなしく従わなくて済むなんていうことは全くないと考えるのが自然であろう。それどころか、これまでずっと勉強してきて漸くサムスン等の一流企業に就職出来たのだから、辞めてしまっては全てが無駄になると考え、より一層企業に対して忠実となる可能性すら考えられるのではないか。ゴールドマンサックスには社員ではなくインターンシップ生(!!)の過労死まであるし、学問が人間を自由にするというような考えは先進国では最早成り立たないのではないか。
②全ての仕事が機械化・自動化し、ベーシックインカム等により人間は働く必要がなくなる
実現しないだろうし、もし仮に最終的にそうなるにしても、移行期間において大きな社会的混乱が起きるので、ユートピアではないだろうというのが私の考え。働く必要のある人の数が少なくなっても、一部の仕事は人間がやる必要があるだろうし、それらの仕事の中には社会秩序の維持に不可欠なものもある筈だ。それらは、必ず誰かにやってもらわなければならない。その時、どれくらいの賃金で働いてもらえば成り立つのか。働く必要のない社会では、働かなくても生活出来るだけのお金を配布している訳であるから、これらの労働者に支払わなければならないお金はかなりの高額になるのではないか。そうなると、結局インフレになり、働かなくてもいい社会であるという前提が崩れるのではないかという気がする。若しくは、不労階級と労働階級に分離し、どちらかがもう一方を差別する社会の到来かもしれない。歴史的にも、嫌な仕事を被差別階級に押し付ける事例はいくつか存在した訳であるし。また、機械化や自動化にすごく熱心な企業であるAmazonが恐ろしく厳しい労働環境だということを考えると、機械化や自動化で便利になる人もいるが、その機械やサービスを提供する側は割と地獄なんじゃないかなって。
③教育を強化すると低所得者層が経済的に成功する可能性が上がる
ここで言う教育の強化とは、主に大学進学率の向上みたいなものをイメージしている。確かに、高度な知識や技能を要する知的職業は存在するのだが、その絶対数は少なく、輩出される大学生もしくは院生の数よりも少ない。それにあぶれた層は所謂普通のホワイトカラーに行くのだが、それらでは何ら特別な能力を要求されておらず、大卒者がそこへ行けるのはシグナリング効果に過ぎない。大学に行くことによる所得向上効果の大部分がシグナリング効果と言えよう。すると、低所得者層を優先的に大学に入れ割合を上げる等しない限り、そのホワイトカラーの職の雇用出来る人数が限られている以上、大学に行きホワイトカラーになってお金を稼ぐ低所得者層出身者が増えるということはない。そもそも極論、全員が大学に行くようになれば、低所得者層が大学に行ったからといって豊かになれるという訳ではない。限られたパイをシグナリング効果で奪い合うゲームである限りは。寧ろ、何らかの事情で大学に行けない人は、今以上の苦境になるであろう。皆大学に行くのが当然であるから、大学に行かなかったのは何らかの欠陥がその人にあるに違いないと考えられて。日本以上に大学進学熱が高い韓国において、大学に行けなかった人はどれだけ苦しいのか考えてみるとこういう結論が出てもおかしくないのではないかという気がするけれども。
そもそも、階層間移動の容易性って救貧において最優先されることであろうか。それよりも、どんな職業に就いたとしても、普通に生きることが出来るお金を稼げる方が大事なのではないか。「いつでも大金持ちになれる可能性が十分あるけど、貧しい人は餓死寸前」な社会よりかは、「階層はなかなか変わらないけど、餓死はあり得ない社会」の方がマシではないか。であるから、救貧には大学教育の充実よりも公共事業による雇用増加の方が良いのではないかと思うのだけれど。
2015年8月27日木曜日
SSC輪読会【6】【7】
SSC輪読会の第6、7回は11章(Combining Mathmatical and Simulation Approach to Understand the Dynamics of Computer Models)の補足ということで、ABM(agent based model)の解析解の導出を、テキストから離れて具体的なモデルで行います。題材はminority gameの臨界点です。その計算過程を詳細に記したpdfをここに上げます。間違い等ありましたらご連絡ください。
https://db.tt/a9jvtsiY
https://db.tt/a9jvtsiY
2015年8月25日火曜日
理解することと問題が解けることの違い
特に理系の人は、ある理論を理解することと問題集の問題が解けることとを混同しているのではないかという気がする。実際にはこれらは別であるのに、それを認識する人は稀というか。
何故こんなことを言い出すのかと言えば、問題が解けるようになって理論を理解したと思っても、その理論を使って現実の事象を説明出来る人は意外に少ないと感じるからである。現実の事象と結び付かずに単なる論理操作として「理解」しているのみだと、社会科学では特にそうだと思うが、容易にダブルスタンダードの誤りに陥る。そこで整合性を取らなければならないと気付くには、現実と一体となった形での理解が必要なのかなと。また、問題集の問題になる、試験に出るような部分はよく定式化された部分だけであって、どういう思索を経て定式化されたのか、その定式化の欠点や例外はどこか、ということにも無頓着になり易い。
そもそも問題集の問題を解く為に勉強している訳でもないし。例えばε-δ論法だって、問題を解くことが本義ではなく、例えば複素関数論で微分可能性とコーシー・リーマンの方程式の関係を証明する等の、更なる学問領域の発展・拡張とかに使われるべきものだし。試験の専門家でなければ、複素関数論でε-δ論法が登場したときに理解出来ればそれで十分であり、問題集の問題を解ける必要はないんじゃないか。
どうして今になってこんなことを言い出すのかと言うと、友人が「自慰行為は単なる消費だ」というようなことを言ったので、消費があるなら生産や分配もある筈だとマクロ経済的に考えたからである。この場合だと、人間一人からなる系で、生産されたのは快楽を感じさせる電気信号であり、それらが行為者に全て分配され、行為者がその全部を消費して効用を得たと。こんな一見馬鹿馬鹿しい現象も見ようと思えば日常的でない観点からも見ることが出来るのだなと実感し、どんなものに対しても物の見方を提供出来るポテンシャルが学問にはあり、それを引き出せるかが理解なのかなあということである。
何故こんなことを言い出すのかと言えば、問題が解けるようになって理論を理解したと思っても、その理論を使って現実の事象を説明出来る人は意外に少ないと感じるからである。現実の事象と結び付かずに単なる論理操作として「理解」しているのみだと、社会科学では特にそうだと思うが、容易にダブルスタンダードの誤りに陥る。そこで整合性を取らなければならないと気付くには、現実と一体となった形での理解が必要なのかなと。また、問題集の問題になる、試験に出るような部分はよく定式化された部分だけであって、どういう思索を経て定式化されたのか、その定式化の欠点や例外はどこか、ということにも無頓着になり易い。
そもそも問題集の問題を解く為に勉強している訳でもないし。例えばε-δ論法だって、問題を解くことが本義ではなく、例えば複素関数論で微分可能性とコーシー・リーマンの方程式の関係を証明する等の、更なる学問領域の発展・拡張とかに使われるべきものだし。試験の専門家でなければ、複素関数論でε-δ論法が登場したときに理解出来ればそれで十分であり、問題集の問題を解ける必要はないんじゃないか。
どうして今になってこんなことを言い出すのかと言うと、友人が「自慰行為は単なる消費だ」というようなことを言ったので、消費があるなら生産や分配もある筈だとマクロ経済的に考えたからである。この場合だと、人間一人からなる系で、生産されたのは快楽を感じさせる電気信号であり、それらが行為者に全て分配され、行為者がその全部を消費して効用を得たと。こんな一見馬鹿馬鹿しい現象も見ようと思えば日常的でない観点からも見ることが出来るのだなと実感し、どんなものに対しても物の見方を提供出来るポテンシャルが学問にはあり、それを引き出せるかが理解なのかなあということである。
2015年8月18日火曜日
自衛と侵略と善悪について
WW2における大日本帝国の行動について語られるとき、しばしば自衛か侵略かが話題となる。大抵の場合、右派は自衛を、左派は侵略を主張し、そこから善悪を導出しようとする。しかし私に言わせれば、それはどちらもナンセンスである。というのも、両者の立場は共に「自衛=善、侵略=悪」という単純な二分論に基づいていて、悪の自衛ないし善の侵略の可能性を排除しているからである。このように論じる理由は、決して、巷によくあるような「自衛の名の下に数多くの侵略が行われてきた」からではない。この論法においても、本質的には「自衛=善、侵略=悪」という構図に囚われている。私が懸念するのは、関東大震災での朝鮮人虐殺や原発事故後の福島県への風評被害等、「行為者本人の目線からは紛れもなく自衛だが、外部から判断すると不必要かつ過激な攻撃であり、悪である」行為である。このような行為を抑止するには、理想的には正しい情報と冷静な判断力を持てということになりそうだが、それは実現性が薄い。何故ならば本人たちは自分が正しいと確信してしまっているからだ。そこで、私の対案として、「悪の自衛行為」の存在を提案する。自衛行為であっても、無条件で肯定はしないということである。過剰防衛との違いは、「やり過ぎたら悪」なのではなく、「やり過ぎなくても本質的に悪」の場合が存在すると主張する点である。
本質的に悪の自衛行為の例として、次のような状況を考えてみよう。ある国Aが極秘に核開発をしている。その情報を掴んだ別の国BがAに先制攻撃を仕掛けた。これに対しAは反撃したと。この場合、先に攻撃したのはBであり、Aは反撃しただけなのであるから自衛であろう。しかし、善悪という観点では恐らくAが悪になるのではないか。さて、この例で言いたかったのは「悪の自衛」が概念的に存在することだけであって、それ以上はない。このようなシンプルなロジックがそのまま関東大震災や原発事故に応用出来るという訳ではないが、「自衛=善」という視点は壊れたのではないか。
私の主張としては、以前は自衛はそれ自体暴走する可能性があるのに、生存欲求を否定したくないあまりに自衛を善、ないし少なくとも否定出来ないものと今までは見做してきた。しかしそれは自衛行為による被害者を黙殺することに繋がりかねないことである。自衛は悪ではないという免罪符の下の暴走を防ぐために、自衛も悪になり得るという観念を一般化するべきであると。ただしここで難しいのは、どういう自衛が善でどういうのが悪なのか、結果論的にしか評価出来ないことである。平家は源頼朝を殺さなかったが故に滅びたが、もし頼朝を殺して平家が生き残っていれば、後世の人からはやり過ぎであったと言われるのではないか。つまり、行為している最中には恐らく善悪を把握することなど出来ないだろうと。だがしかし、自衛に全くの歯止めが無いのは不合理であるので、心理的な壁として機能するよう、「悪の自衛行為」の存在は心に留めておいて欲しいのである。
人間の自衛感情の強さを実感した理由を以下に示す
関東大震災での朝鮮人虐殺の背景要因として、「朝鮮人を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということがあると中学の国語では習ったが、福島県への風評被害は「福島県民を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということはないのだから、要因としてあまり本質ではないと思われる。自衛だから仕方ないんだ」「自分の身を守れるならなんだってやる」という自衛肯定精神の方が本質であろう。
本質的に悪の自衛行為の例として、次のような状況を考えてみよう。ある国Aが極秘に核開発をしている。その情報を掴んだ別の国BがAに先制攻撃を仕掛けた。これに対しAは反撃したと。この場合、先に攻撃したのはBであり、Aは反撃しただけなのであるから自衛であろう。しかし、善悪という観点では恐らくAが悪になるのではないか。さて、この例で言いたかったのは「悪の自衛」が概念的に存在することだけであって、それ以上はない。このようなシンプルなロジックがそのまま関東大震災や原発事故に応用出来るという訳ではないが、「自衛=善」という視点は壊れたのではないか。
私の主張としては、以前は自衛はそれ自体暴走する可能性があるのに、生存欲求を否定したくないあまりに自衛を善、ないし少なくとも否定出来ないものと今までは見做してきた。しかしそれは自衛行為による被害者を黙殺することに繋がりかねないことである。自衛は悪ではないという免罪符の下の暴走を防ぐために、自衛も悪になり得るという観念を一般化するべきであると。ただしここで難しいのは、どういう自衛が善でどういうのが悪なのか、結果論的にしか評価出来ないことである。平家は源頼朝を殺さなかったが故に滅びたが、もし頼朝を殺して平家が生き残っていれば、後世の人からはやり過ぎであったと言われるのではないか。つまり、行為している最中には恐らく善悪を把握することなど出来ないだろうと。だがしかし、自衛に全くの歯止めが無いのは不合理であるので、心理的な壁として機能するよう、「悪の自衛行為」の存在は心に留めておいて欲しいのである。
人間の自衛感情の強さを実感した理由を以下に示す
関東大震災での朝鮮人虐殺の背景要因として、「朝鮮人を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということがあると中学の国語では習ったが、福島県への風評被害は「福島県民を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということはないのだから、要因としてあまり本質ではないと思われる。自衛だから仕方ないんだ」「自分の身を守れるならなんだってやる」という自衛肯定精神の方が本質であろう。
2015年8月8日土曜日
妹様防衛軍
コミケに出すような品質のバージョンを作りました。
ダウンロードは(https://db.tt/hRq8yZ0t)から出来ます。
遊ぶにはXNAのランタイムのインストールが必要です。
以下ReadMeファイルの中身
炎の魔剣で群がる吸血鬼どもを殲滅せよ
最強の吸血鬼ハンターとして、全てを狩るのだ
ルール
矢印キーで移動
Zキーでレーヴァテインによる攻撃。どんな奴だろうが耐えられはしない。黒焦げだ
だが凄まじい反動で、放射中は動きは取れない。油断しないようにな
レーヴァテインは大技なんでな、そう連発は出来ない。妹様の紋章で現在の余力を伺うことだ
ENTERキーは時空の魔術。全てはゼロに戻る
ESCキーは終焉の魔術。世界を終わらせる
吸血鬼は直接その手で切り裂いて攻撃してくる、触れると大ダメージだ
しかし奴らも生物体だ、幼体である蝙蝠形態では攻撃力を持たない
だがその代わり蝙蝠形態は空を飛ぶ。迂闊に振る舞うと包囲されるぜ
素早い動きに翻弄されず、寧ろこちらから誘導してやれ
時間と共に奴らは進化する、せいぜい気を付けるんだな
どうやら奴らは巣をオレンジの魔力でコーティングしているらしい。悪いがどんな刃も通りそうにないな
攻撃を食らわず、如何にスタイリッシュに戦ったのか評価がスコアとして表示される、高みを目指しな
作者 世外奇人495
作曲者 Nego-tiator
原曲作曲者 ZUN
効果音はザ・マッチメイカァズ(http://osabisi.sakura.ne.jp/m2/)よりお借りしました
幸運を祈るぜ
ダウンロードは(https://db.tt/hRq8yZ0t)から出来ます。
遊ぶにはXNAのランタイムのインストールが必要です。
以下ReadMeファイルの中身
炎の魔剣で群がる吸血鬼どもを殲滅せよ
最強の吸血鬼ハンターとして、全てを狩るのだ
ルール
矢印キーで移動
Zキーでレーヴァテインによる攻撃。どんな奴だろうが耐えられはしない。黒焦げだ
だが凄まじい反動で、放射中は動きは取れない。油断しないようにな
レーヴァテインは大技なんでな、そう連発は出来ない。妹様の紋章で現在の余力を伺うことだ
ENTERキーは時空の魔術。全てはゼロに戻る
ESCキーは終焉の魔術。世界を終わらせる
吸血鬼は直接その手で切り裂いて攻撃してくる、触れると大ダメージだ
しかし奴らも生物体だ、幼体である蝙蝠形態では攻撃力を持たない
だがその代わり蝙蝠形態は空を飛ぶ。迂闊に振る舞うと包囲されるぜ
素早い動きに翻弄されず、寧ろこちらから誘導してやれ
時間と共に奴らは進化する、せいぜい気を付けるんだな
どうやら奴らは巣をオレンジの魔力でコーティングしているらしい。悪いがどんな刃も通りそうにないな
攻撃を食らわず、如何にスタイリッシュに戦ったのか評価がスコアとして表示される、高みを目指しな
作者 世外奇人495
作曲者 Nego-tiator
原曲作曲者 ZUN
効果音はザ・マッチメイカァズ(http://osabisi.sakura.ne.jp/m2/)よりお借りしました
幸運を祈るぜ
2015年8月4日火曜日
The Value of Econophysics
This text is written for Marginalia, a magazine published by university students.
Marginaria Web Page(http://ronsetsu-marginalia.blogspot.nl/)
“What econophysics means?” I have to answer this question before explaining the value of econophysics because you can’t understand the value of anything if you don’t know it. Evonophysics is a relatively new domain and its researchers come from many different fields, such as physics, economics, engineering, mathematics, information and so on, therefore the definition of it is not explicit. So I propose the objectives of econophysics and define econophysics as a science aiming it. There are, for examples, (1) to find statistical features called stylized facts that come from big data that you couldn’t have got before (big means high frequency or minute detailed, such as 1 nanosecond financial market trading data, all companies transactions relationship, and so on), (2) to describe the mechanism emerging stylized fact by using simple microscopic or mesoscopic model like agent based model (ABM) and (3) to extend the realm of physics to be able to discuss the systems composed of not only particles that always behave same if the condition is the same but also agents that behave differently even if the condition is the same because of agents’ learning, adopting and evolution.
The biggest defect of economics is relying too much on mathematics. It means that every economical phenomena should be described by mathematics makes economics unrealistic. Mathematics only deal with perfect deterministic situations or perfect random situations. If you use mathematics in the mixture situations of deterministic and random, you can get only very abstract or trivial conclusions (such as bubbles must crash eventually) and cannot discuss real-worlds problems. To avoid this, economist have made “good-looks” assumptions like people behave in order to maximize his/her utility with perfect rationality and solve economic problems with such assumptions. One of the typical cases of this is efficient market theory (EMH). It says that price movements obey independent Gaussian distribution because people trade stocks based on its theoretical price (fundamental price) determined by the external news such as company’s achievement and external news will come unexpectedly because expected news is taken into account immediately and loses its value. So this statement means that everybody behave rationally and nobody knows the future. It sounds good. However, it cannot explain fat tail, one of the stylized facts that means large fluctuations obey power law distribution and thus occur more frequently than Gaussian. This typical examples are large crashes, such as Wall Street Crash (1929), Black Monday (1987), Lehman Shock (2008) and so on. Gaussian distribution says large crashes never happen, but in reality, it is not the case. In conclusion, what I want to say in this paragraph is that mathematics is useful, but sometimes you idealize problem too much to contain important features in order to solve it mathematically.
So what we should do solve this problem? Econophysicists uses mainly ideas come from non-equilibrium statistical mechanics, complex systems theory, synergetics. The key is in the mesoscopic level connecting micro and macro because there are no other economics domain dealing with mesoscopic. It is true that one of the EMH defects, perfect rationality is also criticized by behavioral economics that assumes people have bounded rationality, but it is only the microscopic level and not suitable to discuss macroscopic economic phenomena. Then, what is the best way to tackle mesoscopic? I think it is ABM. ABM can realize mesoscopic mechanics by emergence and downward causation. Emergence means interactions among microscopic agents make macroscopic orders or structures. Downward causation is each agent who often has bounded rationality learn from macroscopic environment that are formed by emergence and change the way how to behave. This micro-macro loop is essential because it can generate stable and non-equilibrium states that are often seen in the real world, but traditional economics, such as evolutionary game theory cannot reproduce. Roughly speaking, an equilibrium state is like a ball in a valley. This is stable because if a ball moves, immediately returns the center of a valley. So its state is frozen. In contrast, stable non-equilibrium state is a sand pile. You drop sands, a sand pile emerges and gains its height. Then, the height of a sand pile will go to infinity? This answer is clearly no. Avalanches sometimes occur and the height goes down. So this system is stable not because its state is frozen but because it always moves. Economic phenomena are not frozen, but dynamical so that you can look them as stable non-equilibrium than equilibrium and this is explained by econophysics.
In conclusion, the value of econophysics is to capture economic phenomena without failing there non-equilibrium features. And what’s more, I expect the development of experimental econophysics established by Ji-Ping Huang. It has a great potential to combine econophysics and laboratory experiments. In Japan, Yu Chen, an associate professor of The University of Tokyo studies it.
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