2015年8月18日火曜日

自衛と侵略と善悪について

 WW2における大日本帝国の行動について語られるとき、しばしば自衛か侵略かが話題となる。大抵の場合、右派は自衛を、左派は侵略を主張し、そこから善悪を導出しようとする。しかし私に言わせれば、それはどちらもナンセンスである。というのも、両者の立場は共に「自衛=善、侵略=悪」という単純な二分論に基づいていて、悪の自衛ないし善の侵略の可能性を排除しているからである。このように論じる理由は、決して、巷によくあるような「自衛の名の下に数多くの侵略が行われてきた」からではない。この論法においても、本質的には「自衛=善、侵略=悪」という構図に囚われている。私が懸念するのは、関東大震災での朝鮮人虐殺や原発事故後の福島県への風評被害等、「行為者本人の目線からは紛れもなく自衛だが、外部から判断すると不必要かつ過激な攻撃であり、悪である」行為である。このような行為を抑止するには、理想的には正しい情報と冷静な判断力を持てということになりそうだが、それは実現性が薄い。何故ならば本人たちは自分が正しいと確信してしまっているからだ。そこで、私の対案として、「悪の自衛行為」の存在を提案する。自衛行為であっても、無条件で肯定はしないということである。過剰防衛との違いは、「やり過ぎたら悪」なのではなく、「やり過ぎなくても本質的に悪」の場合が存在すると主張する点である。
 本質的に悪の自衛行為の例として、次のような状況を考えてみよう。ある国Aが極秘に核開発をしている。その情報を掴んだ別の国BがAに先制攻撃を仕掛けた。これに対しAは反撃したと。この場合、先に攻撃したのはBであり、Aは反撃しただけなのであるから自衛であろう。しかし、善悪という観点では恐らくAが悪になるのではないか。さて、この例で言いたかったのは「悪の自衛」が概念的に存在することだけであって、それ以上はない。このようなシンプルなロジックがそのまま関東大震災や原発事故に応用出来るという訳ではないが、「自衛=善」という視点は壊れたのではないか。
 私の主張としては、以前は自衛はそれ自体暴走する可能性があるのに、生存欲求を否定したくないあまりに自衛を善、ないし少なくとも否定出来ないものと今までは見做してきた。しかしそれは自衛行為による被害者を黙殺することに繋がりかねないことである。自衛は悪ではないという免罪符の下の暴走を防ぐために、自衛も悪になり得るという観念を一般化するべきであると。ただしここで難しいのは、どういう自衛が善でどういうのが悪なのか、結果論的にしか評価出来ないことである。平家は源頼朝を殺さなかったが故に滅びたが、もし頼朝を殺して平家が生き残っていれば、後世の人からはやり過ぎであったと言われるのではないか。つまり、行為している最中には恐らく善悪を把握することなど出来ないだろうと。だがしかし、自衛に全くの歯止めが無いのは不合理であるので、心理的な壁として機能するよう、「悪の自衛行為」の存在は心に留めておいて欲しいのである。

人間の自衛感情の強さを実感した理由を以下に示す

関東大震災での朝鮮人虐殺の背景要因として、「朝鮮人を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということがあると中学の国語では習ったが、福島県への風評被害は「福島県民を普段迫害しているから、その報復を恐れた」ということはないのだから、要因としてあまり本質ではないと思われる。自衛だから仕方ないんだ」「自分の身を守れるならなんだってやる」という自衛肯定精神の方が本質であろう。

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